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教育チームに配属となった小池 達也のインタビュー記事です!

小池 達也(Koike Tatsuya)

Education Div. Director / 大子町team
1997年4月生まれ。東京都練馬区出身。2016年、上智大学総合グローバル学部に入学し、東南アジア地域研究を専攻する。卒業後はマレーシアのUniversiti Putra Malaysiaの修士課程に進学。「日本人留学生のマレーシア英語に対する認識」をテーマに論文を執筆し、応用言語学の修士号を取得する。2023年10月より新卒としてFoundingBaseにジョイン。現在は茨城県大子町の公営塾「ことのば」にて教育事業に携わる。

初めての挫折と成功体験(幼少期)

東京都練馬区に生まれ、大学時代まで実家で育ちました。小さい頃は人見知りで、知らない人に話しかけられるとすぐに母親の後ろに隠れてしまうようなタイプでした。幼稚園、小学校で外で遊ぶようになり、だんだんと社交性が身についていったようです。
幼少期で特に印象に残っている出来事は、2歳の時から10年間習っていたスイミングです。運動はあまり得意ではなかったので、なかなか思うように上達しませんでした。辞めようと思う時は何度もありましたが、負けず嫌いで諦めの悪かった自分は、それよりも途中でやめたくないという意地の方が勝ってしまい、結局最後のクラスまで上り詰めることができました。覚えている中で最初の挫折と成功体験であり、最後までやり切らないと気が済まないという自分の性格がここで形成されたような気がします。

自分の軸が形成される(中学・高校時代)

中学までは地元の公立学校に通いました。「学校は社会の縮図」などとよく言われますが、中学はそれを一番体現したような場所で、すこぶる頭の良い者から荒くれ者まで本当に様々な生徒たちがいました。そんな環境で刺激的な日々を過ごす中で、クラスでの自分の個性や立ち振る舞いについて考え始めたのがこの時期でした。
また、中学時代は生徒会役員や学級委員といったリーダーとなる役職を務めることが多くありました。やりがいも多い仕事でしたが、自らが主導で多くの人を動かしていくという役目はうまくいかないことも多く、自分にリーダーは向いていないのではないか、という葛藤も同時に付きまとう日々でした。

高校は映画「君の名は」のモデルとも言われている、都心にある都立高校に通いました。進学校ではありましたが、中学とは大きく異なり生徒の個性や考え方を尊重するとても自由な校風でした。中学時代からできることや行動範囲も広がり、楽しい高校生活を送る一方で、自由であるからこそより問われる自身の在り方について、最初の頃は悩むこともありました。
高校では父の影響で軽音楽部に入ってギターを始め、そこから音楽にのめり込んでいきました。とはいえ、軽音楽部の活動日はそれほど多くなかったので、なぜかクラスに多かった帰宅部の友達と一緒に「暇部」を名乗って都内の様々な場所を散歩したり、休日は旅行や遊びを企画したりしました。ほとんどの生徒が部活と勉強に打ち込む中、ある意味特殊な高校生活ではありましたが、「無理に周りに合わせるのではなく、自分のやりたいことに対して素直でいる」という自分の軸となる部分は、この頃に形成されました。そこからだんだんクラスでも自然な立ち振る舞いや自分らしさを見せることができるようになり、自分の在り方について悩むこともだんだん少なくなっていったように思います。

やりたいことを全部やる(大学時代)

大学は上智大学の総合グローバル学部に入学。東南アジアの地域研究を専攻しました。一番時間に自由のきく大学時代は「とにかくやりたいことを全部やる」をテーマに動いていたので、主に学問、サークル、趣味の3軸でとにかく興味を持ったものは全てチャレンジしてみました。
学問の領域では高校から英語が好きでしたが、大学では英語が第二言語として使われている多言語社会に興味を持ち、「シンガポールとマレーシアの英語観の地域差」というテーマで卒論を書きました。4年次は半年休学して実際にシンガポールでインターンをしながら生活し、リアルな多文化・多言語社会に触れることで、自身の文化や価値観を相対化する視点を身につけました。
サークル活動は高校時代から続けていた音楽の興味を広げ、ジャズ、ゴスペル、ファンクなど様々なジャンルの音楽サークルを掛け持ちしていました。
趣味の領域では、旅行や散歩の行動範囲がさらに広がり、アジアやヨーロッパへ海外旅行に行ったり、友達と山手線や東横線の駅を全て歩くといった企画も行いました。自身の興味を深め、広げることができた貴重な時間でした。高校時代で形成された自身の軸が、様々な経験を通して肉付けされて強固になっていく期間であったと感じています。

いざマレーシアへ(大学院時代)

大学休学中、シンガポールにいた頃に大きな転機がありました。何度か訪れたマレーシアの独特なゆっくりと流れる時間に惚れ込んでしまい、今度はマレーシアに住んでみたいと考えるようになったのです。そこに第二言語としての英語をもっと研究してみたいという思いが重なり、とうとう就職を辞めてマレーシアで大学院進学をする決断に至りました。やりたいことに正直であるという自分の生き方を貫き通せるか、という自身に対する最も大きな挑戦とその集大成でもありました。
大学院では英語を中心とした応用言語学を専攻し、現地の学生や様々な国の留学生たちと共に学びました。多言語のマレーシアという視点から見た言語学や自身の研究も学び多く充実したものでしたが、それ以上にマレーシアでの生活を通して、人種や宗教といった多様性との向き合い方、モノの豊かさより心の豊かさを大切にする価値観など、自身の生き方や価値観を根本的に見つめ直すきっかけとなる気づきを得られたのが何よりの成果でした。
状況が毎日変わるコロナ禍での海外渡航、文系海外大学院留学の情報の少なさ、日本人が一人もいない中での大学生活など、入学前の不安は非常に大きなものでした。しかし振り返れば困難よりも、興味深い経験や楽しい思い出の方がはるかに多く、どれも留学を決意していなければ手に入らなかった、自分の人生を豊かにしてくれるものばかりでした。まだ知らない世界に対する気づきと好奇心、そこに飛び込んでみる少しの勇気があれば、自分の可能性や生き方の選択肢は何倍にも広がると確信した、かけがえのない経験でした。

東海道五十三次を歩いて気づいた地域の魅力

大学卒業から大学院入学まで6ヶ月間のギャップイヤーがありました。長期休みは海外旅行に行くことが多かった自分ですが、コロナでそれも叶わず、何か長期でできる挑戦がしたい…と思い至ったのが、東海道五十三次を徒歩で制覇するというチャレンジでした。
念入りに計画を立て、予定通り3週間で東京・日本橋から京都・三条大橋までを歩き切り、ゴールして見る鴨川の景色は格別でした。道中様々な出会いや息を呑む景色、美味しい郷土料理など、多くの感動に触れるにつれ、日本の地域にもまだ自分が知らない心を豊かにする魅力が山ほどある、それをもっと広めて行きたい。そんな思いが芽生えました。これが地域に目を向ける大きなきっかけとなりました。
コロナ禍であり、かつ時間がなければ行っていなかった挑戦。これがなければ地域で働くことを考えていなかったと思うので、人生は思いもよらぬことが転機になるのだと気付かされました。

FoundingBaseとの出会い、そしてこれから

東海道での地域との出会い、そして留学で学んだ新たな選択肢への気づきとそこに飛び込む勇気の大切さから、このように考えるようになりました。
”誰かの人生に気づきを与え、より多くの可能性に向かって挑戦する手助けがしたい。そして誰もが自分らしくいられる場所でワクワクする人生が送れる、そんな世の中をつくりたい。”
そんな思いを持った自分にとって、”「自由」をUpdateする”をミッションに掲げるFoundingBaseはこれ以上ないほどぴったりの場所だと思いました。
自分の働く茨城県大子町の拠点では、公営塾「ことのば」の立ち上げを行っています。地域との接点が特徴である公営塾は、単に教科を教えるだけの場ではなく、地域やそこに暮らす人と協働することで、地域をフィールドに生徒が自ら挑戦する機会を生み出す、そんな学びの場を目指しています。
これからはFoundingBaseのメンバーの一員として、まずは自分の暮らす地域の良さを知り尽くし、子どもたちが「自分にはこんなこともできる」「こんなこともやってみたい」と思ってもらえるような、人生を豊かにする気づきと挑戦に伴走できる人を目指して頑張っていきたいと思います。

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