1
/
5

僕が銀行や、外資系コンサルでの職に就き、そしてそれらを全部ぶん投げてスポーツフィールドにくるまで。

こんにちは。スポーツフィールドで取締役をしています、永井です。

初めてのエントリです。そして最後かも。

なんか書かないとWantedlyスコアが上がらないんじゃないかと採用チームのメンバーに言われ、重い腰を上げて筆を執りました。

よく、仕事が変わったきっかけや、どういう想いで転職をしてきたかを聞かれるので、良い機会なのでこちらに認めておきます。

唐突ですが振り返ると僕、学生時代に勉強に熱心じゃなかったんですよね。褒められた話ではないのですが授業もろくに出ず、大学4年生の後期まで周りに助けられ続けて単位を拾うダメ大学生でした。

趣味の音楽と旅行ばかりしていて、ゼミも入ってなかったし。というか受けたけどあっさり落ちたし。赤木ゼミ。

なるべく少なくて済む程度の勉強と出席で進級を繰り返して、良く遊びました。4年生の後期で24単位あったなぁ。。。就職なんてあまり考えず、音楽で食べていきたいと夢想してました。


そんな中で大きな一つ転機になったのが、リーマンショックでした。

パッカーとして滞在していたマドリードの安宿で朝テレビを付けたら、「リーマンブラザーズ破産」。

そんで日本に帰ってみたら、同級生が目の色変えて就活始めてたんですね。おまえ昨日まで一緒にパチンコ打ってたやんけ、みたいな奴らが。

人気企業の会社説明会は、リリース直後に予約しないと参加できないくらいだったんですが、iPhoneも浸透していない時代で、みんなノーパソ持って路上で開いてましたね。隔世の感です。

リーマンショックの前年までは超売り手市場と言われ、先輩たちがバンバン良いところに就職を決めていたわけですが、どうやら状況が一変しそうだと。


(当時の僕。うっとい学生でした)

社会現象として内定取り消しがあったり、名だたる企業の倒産が起こったり(現に父の会社は経営破綻)、会社が倒れるというのは大変なことだなと思い、なんとなく「自分の力を梃にして企業を良くすることがしたい」「企業の看板に頼らず、自分が普遍的に価値ある存在でありたい」という想いが自分に根付き、これはその後も今に至るまでずっと変わらないです。


しかしながらそんなに簡単に人はまともになれず、その後ものらりくらりと遊んでいるうちに、大学三年の冬が進むわけです。そもそも、ずっと続けてきた音楽で食べていきたいという気持ちも捨てきれずに、知人の紹介もあり、オーディションなども受けていたんですね。今でいう三代目JSBとかの。

一緒に歌ってきた友人は、早々と歌で食べていくことを決めていましたし(今に至るまで音楽一本で家を建てて家族を養ってるのだから、立派です)。

気が付けば選考の早いメディアやコンサル、外銀の就職マーケットはクローズしていました。

結局なんか縁があってSMBCに拾ってもらうわけです。コーンロウに、ピアス沢山の風貌をさわやかな黒髪短髪に切り替えて。


まぁともかく紆余曲折を経て入ったSMBCですが、上司にも恵まれ、仕事は面白かったです。

お金を貸せばお客さんはつぶれないわけだし、先述の自分の就職観に合っていました。

一方で銀行も慈善団体ではないので、リスクを明確にして限りあるリソースを良い会社に貸したいわけです。そのリスク計量をしたり、アセットリソースのポートフォリオを企画したりして、銀行とお客さんで良い未来を共創していくわけです。とても興味が持てて、面白かった。

海外のマーケットを見ることができ、勢いのあるアジア圏の外資系企業に対する与信判断を行ったのは大変勉強になりましたし。


でも、、、、同時に、お金を貸すだけでは本質的に企業は良くならないという限界も感じました。

B/Sは改善してあげられるんですけども。

資本市場の発達と反比例する形で、銀行のような間接金融のプレゼンスが企業の中で相対的に下がり、もはや経営アドバイザリーとしての機能を期待されていない、とも感じていました。(個人的見解です)

結局、お金を出すだけではなく、戦略立案から実行、新規事業やコストダウンなどを通じて顧客企業のP/Lを改善することで、企業価値を上げてみようと思い、コンサル会社に転職しました。

創業から100年が経つ北米の老舗戦略ブティックでしたが、今はアクセンチュアの戦略部門に買収されてなくなってしまった会社です。

そこでは、基本的なPCスキルから叩き込まれ、昼でも夜でも朝でも飛び交う空中戦に食らいつき、インドのチームとへたくそな英語で会議して、聞き取れない英語に半べそかきながら議事録を書き、前任から引き継いだ案件の最初の打ち合わせでクライアントや同業から火だるまにされ、作ったプロポーザル(提案書)は1ページめを読んで破られ、鍛えられました。1ページめだけ差替えてもう一度出す逞しさが身につきました。なんだよ、それでも通るんやん。

しかしながら働き続ける中で、クライアントの中の人以上にその会社にコミットできないクライアントワークのもどかしさや、プロフェッショナルとして自分の仕事ぶりに一定の手ごたえを得られたこと、120%一つの会社にフルコミしたい思い、などが高じて、事業会社への転身を考えだします。親しい同僚にベンチャー業界からEXIT後にコンサルへ転身してきた方がいて、その人の影響も大きかったですね。


(転職するたびに長期の休みをもらって旅行に行ってました!次回はジンバブエ、エチオピア、ザイールあたりのアフリカがターゲット)

そんな折に、銀行時代の同期から共同創業に誘ってもらうわけです。「民泊ポリス」の株式会社Oscarですね。

創業エピソードあるあるですが、もう濃いエピソードがてんこもりで。

・自社サービス一度失敗して大きくピボット
・食っていくために受託したら筋の悪いお客さんと揉めて債権回収交渉
・資金繰り読み違えて詰みかける
・そんな中で出したサービス(民ポリ)が俄かに脚光を浴びてたくさんメディアが取材くる
・すこしだけスキーム練ってなんとか第二次ファイナンスに成功


また当然創業するとコンサル時代に比べて生活水準が格段に落ちるわけです。

給与は額面でざっと3~4分の1です。

しかしその頃の彼女に「結婚考えてるのか。貯金もないとかナメてんのか」と凄まれ、何かと入り用だったので、週に5日の自社コミットと、残りの2日で知人に紹介してもらったいくつかの会社にパートタイマーとして出稼ぎにいくという働き方を選択し、あまり生活水準が落ちないようにしました。

パートタイム参画していた会社の一社が、今CFOをしているスポーツフィールドなんですよね。

つまりスポーツフィールドに入社したのは2017年の1月ですが、その前も1年以上前から、社外から関わっていたというわけです。


色々あってコミット割合が変わりスポーツフィールドに来たわけですが、Oscarとも喧嘩別れしたようなことは全くありませんですし、スポーツフィールドで実現したいことや、今の自分がもらう報酬に見合った価値を最大限出せるのはスポーツフィールドであることを説明し、円満に送り出してもらっているので、今も若干の株主でもあります。

メンバーに敬意を持っていますし、もちろん代表の中込をとても尊敬しています。


(直近のスポーツフィールド、社員旅行!真ん中が代表、右隣が僕です。)

とまぁジョインしたきっかけこそそんな感じでしたが、今はここで働く社員のみんなや、事業、顧客、チームに大きな愛着を感じていますし、また自分が必要とされていることを感じて励みにもなっています。

代表の篠﨑は、大きな器、厳しさと愛情のバランス、誰よりも会社にコミットするストイックさ、人としての清潔感、寛容性、妥協しないこだわり、本当の謙虚さなど、自分に足りない部分を持っており、身近で一緒に仕事をすることで本当に勉強になります。

マネジメント経験も積ませてもらっていて、今までは自分の成長が仕事における最優先事項でしたが、今は社員やチームメンバーの成長の方が嬉しいです。本当に。

領域としても経営戦略・経営企画、財務、内部統制、広報、新卒採用などを中心に挑戦させてもらっており、理念の実現のために日々模索しながら毎日新しいことに取り組んで、苦労して、成長実感があります。

またスポーツフィールドが創業来の生業にしている、スポーツをやってきた人財を企業に送り込み、引退後の道を拓くとともに企業の発展に貢献するというようなことは、今まで僕がやってきた「自分の力を梃にして企業を良くすることが出来る」仕事をしたいという想いとも合致しているところです。


スポーツの価値の見える化(定量化)と、その価値の引き上げを行い、スポーツの可能性を様々なフィールドに展開することを社是としており、このあたりは自分の得意分野である、目に見えづらいものをなるべく合理的に数値化して測る、ことが生かしながら取り組んでいきたいと思っています。

長くなりましたが、こんなところで。今までのキャリア選択におけるイベントと、その理由を書いてみました。

大企業・コンサル・ベンチャー(創業期)・ベンチャー(ミドル~レイター)のそれぞれにいた身なので、それらに少しでも興味をお持ちの方に読んでいただき、理解に僅かながらでも役立てていただけたなら嬉しいです。そして、スポーツフィールドに興味を持っていただけると幸いです。

何卒、よろしくお願いいたします。

18 いいね!
18 いいね!