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血みどろになって生きるか抑圧されて生きるかの2択を超えて

「なんで?どうして?」これが私の子どもの頃の口癖だった。

授業中に「なんで椅子に座り続けなければならないのか。」と問い。

休み時間は「なんでみんな違うのに同じように仲良くしなければならないのか。」と問うた。

そうして“社会”から都合が悪い疑問を人々にぶつけるたびに「あの子は異常である」と認められなくなっていった。

“適応する”ということを知らなかった私は私そのままでそれでも関わり続けようとし、最終的に待ち構えていたのは不登校という“社会”からは離れた人生だった。

しかし転機は訪れる。案外社会は“優し”かったようで、不登校生のための高校がそこには用意されていた。そこでは“不登校である普通でない私”は許容され“自由”が許されていた。未だ“不登校生らしさ”というしがらみがある一方でそれでも私は私らしく存在できたと思う。私の人生という名の物語はハッピーエンドが続いていくかと思われた。

しかしそうは問屋がおろさないのが現実である。不登校生であり、勉強もできず、社会のルールも知らない私たちに許される選択肢は数少なかった。不登校のその先は、血みどろになって自分で切り開くしかなかったのである。

では、“社会”で生き続ける人生が幸せかと言われれば案外そうではなさそうだと外から見て思う。

血みどろの世界を乗り越えて私は今“普通に”大学生をしている。

きっとさぞかし幸福な人々がそこにはいるのだろうと思い足を踏み入れたそこは決してそのような場所ではなかった。

学校で教えられた“規範”、家族からの“期待”、社会から求められ続ける“成果”、私の中にある願いではなく社会の願いに私が押しつぶされる、そんな世界がそこには存在していた。

この世界には社会という名の枠組みが存在しているのだと思う。

枠組みの外に出るのならば“自由”と引き換えに自己責任の名の下、血みどろになって生きていく人生が。

枠組みの中にいるのならば“安心”と引き換えに、社会のために抑圧される人生がそこには待っている。

「枠組みから解放されて自由になって生きよう。」「不確実な世の中で安心を手放すなんてありえない。」

それぞれの立場の人々がそれぞれのあり方を正当化しようと、そんな声が聞こえて来る。

誰も、その枠組みそのものは疑いもしない。

きっと、そうきっと、この2択を乗り越えた新たな選択肢があると私は信じている。

私が私としてありながら、社会の枠組みから離れるのではなく、社会の枠組みそのものを一人一人と共に、変容していく、そんな世界がきっと待っていると思う。

血みどろにならなくても手に入れることができる“自由”が、抑圧されなくても手に入れることができる“安心”が手に入れることができる社会だ。

道のりは遠いのかもしれない、それでも私は私の命が続く限り、その世界を諦めずに目指して行きたいと思う。

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