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社会的承認と生きづらさについて〜私が最近考えていること〜

幼少の頃から社会の当たり前に逆行している結果、社会から承認されえないことが多く存在した。例えば不登校、学校に行こうが行くまいが「私は私」であるはずなのにどこか私は存在してはいけないのではないかと真綿で首を絞められるがごとくその思念が私を徐々に苦しめていった。社会の側も実際のリアリティある形で不登校である私を拒絶した。中学の時不登校になった私はそれでも再び社会との関わりを取り戻そうと勉強に励んだ。高校で再び社会に参画するためである。教師もいない、クラスメイトもいないひとりぼっちの戦いの後、私の得た結果は不戦敗というものであった。出席日数が足らないがゆえに受験資格が存在しなかったのである。

他にも学校に行っていた時も同様の経験をしていた、小学校の時である、「なぜ教室では座る必要があるのか」「なぜみんな違うのにみんな同じように仲良くする必要があるのか」そうした“社会”からは都合が悪い疑問を人々にぶつけるたびに徐々に「あの子は異常である」と認められなくなっていった。それでも私はただ人に私という存在を認めてほしいがあまり“行動”に打って出ることになった、それは教師への反発であったり、友人へのちょっかいだったり、私の知りうる他者への関わり方を持って全力で他者に関わろうとし拒絶された。一度学級会にて先生自ら「澤くんの悪いところをみんなであげましょう」というテーマで1時間使って痛めつけられることもあった。 拒絶され、一般的社会から排除されるたびに私は他者との違いを認識することを通して私の輪郭を自覚し、その中で自己を今ここに存在できるよう必死にその輪郭をかき集めた。気づいた時には社会の当たり前に溶け込む安心感とは遠く離れた“個”としての私が確立されていた。誰にも迎合しない代わりに誰からも承認されえない、私も誰も社会も承認しない代わりに常に“孤独”であった。他者と繋がりうる言葉を失い、私が私として存在するための言葉しか私に存在しなくなったがゆえである。それが不登校までの私である。

その後私は高校へ進学した。その場所は不登校であるということが承認される空間であった。だが逆に私は不登校である私という範囲内での承認であった。不登校である私は傷つく私としての私を表出することを求められた、不登校である私は不登校生らしくオルタナティブな教育を受けることを求められ、正統的な価値観に基づく教育からは遠ざけられた。その場所から湧き出てくる「不登校らしさ」の隠された強制から湧き出る違和感をぶつけるたびにこの場所でさえも私は「異常」な存在となった。一定の場所という社会において一定の基準を超えた瞬間に私はその社会には存在してはならないことになるのである。だが、その社会は誰が承認するものなのだろうか、学校にいる私も、不登校である私も、不登校生の通う学校に通う私も、その私は社会を承認する主体にはなりえないのだろうか。高校生の時の私はそうした疑問と闘い続けていた。

そして私は今、ただの大学生になった。早稲田大学生という「輝く」存在であり、不登校生という「かわいそう」な存在という認識は社会からは消えた。だが、不登校生ではなくなった私は「不登校生」ではないのだろうか。私はきっと普通の高校生の過ごしてきた高校生活をすごしていない異文化としての存在として他者を見てしまっているし、異なるものとして私をどうしようもなく認識してしまう。だが私はただの大学生である。それ以上の何物でもない。 高校の空間で承認されたり拒絶されたりと揺れ動いていた私は大学の空間に入るとその承認拒絶を決める舞台の俎上にすらあげられなくなるのである。あの時も今も私に残り続ける私は一体全体何者なのであろうか。

これは私だけの話ではない。私と同じ高校に通っていたクラスメイトたちは往々にして類似する課題に苦しみあぐねいている。不登校である私、どうしようもなく普通に生きられない私、障害を持つ私、虐待を受けた結果他者を受け入れられない私、いじめの恐怖ゆえに言葉を失った私、「不登校生らしさ」の枠はあれどもそのマイノリティ性を承認されていた高校という時間的空間を超えた先にあったのは、その存在を承認されえない空間であった。私たちはその空間を生き抜く術を知らない。その生き抜く術を保持するか否かは社会ではなく私の責任として全てを背負わざるをえないのである。私が生きられるかどうかはどうして私が決められないのであろうか、社会からどうしようもなく外れてしまうとするならば代償として私が全て決めざるをえないのだろうか。(全てを一人で決めるということは全ての責任を私が負うということになる) 私という存在は、私たちという存在は、社会という存在は、誰が決めるのだろうか、決められたものを引き受けなければならないのだろうか、私が全て決めきらなければならないのだろうか、別の形はないのだろうか。それが私の中の問いである。