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必死に書いていた企画書を読まずに返された

今日まで必死に書いていた企画書を読まずに返された。

もう書くのをやめろと言われた。

10月31日

こんな時ですら書いているのだから、よっぽど書くのが好きなのだと思う。
もう誰に否定されようと、手が動かなくなろうともきっと何か書いているだろう。
彼はもうどんな反論も受け付けません、という態度で私に話した。
読んですらもらえないものを書くことに意味はあるのか。
いつかどこかで読んで貰えるんだろうか。
彼が私に話すその口調が本当に厳しいものだったので、私はこの人本当はこんなこと言いたくないのかもしれないなあ、と思った。
悪意が発信源であるならまだ救いがあったのかもしれない。

一番怖いのは書くことを否定されることではなく、書けなくなることだ。
自分が美しいと思える表現がわからなくなること。書きたいと思うものを見つけられないくらい世界を閉じてしまうこと。書くことを楽しいと思えなくなること。
そう思えば、もういいやなんて全然思わなかった今日の私って大正解なんじゃなかろうか。
もういいやなんて全然思わなかった。
ムカついた、非常にムカついた。けれども、それをぶつけることをよしとできるほど子どもではなかった。お前にはもう書かせない、と断固として言われている最中から、どうしたら自由に書けるようになるかを必死で考えていた。
ありがたいことに頭の中を覗かれることはない。私はどんなにダメになっても書く。書きたいことがある限りずっと書いていく。
今日の出来事は書きたい出来事だった。

言葉を本当に愛している。息をするように愛していて、こうやって言葉にすることが不自然に思えるくらいだ。思えばずっとずっと前から、私には書くことしか逃げ場がなかった。今だってそうだ。
涙なんか流したってどうしようもない。
「泣くなー、泣いたら伝わらないんだぞー」

脚本にこだわるのは、声にしたいから。叶うことなら私を超えた力で。声が生まれてほしい。涙が。救いが。
続けるなと言われれば言われるほど、報われないと思えば思うほどその思いは強くなるばかりで、終わりがない。
私が生み出した何人ものキャラクターは、誰かの声で、感情で、やっと生まれる。生まれた瞬間の喜びをどうしても忘れられないのだ。そしてそれを受けて涙した人のことも。私は人が好きだ。みんなそれぞれに足りているところと足りないところがあって、誰かにとっての大切で、みんな正義を持っている。だからぶつかったり傷つけあったりして、そこに悪はない。みんな自分が信じる愛にしたがって動いている。少なくとも私が出会ってきた人たちはそうだった。みんな悲しみを持っていた。それを描きたい思いはもう中毒に近い。どうしようもない。私自身にも制御できるものではない。だから、私以外のだれかが止めようとしても止めようがない。きっとこの先誰かに出会うたび、誰かの気持ちを感じるたび、私はそれを描きたいと思うだろう。キャラクターは私の中に生まれていく。勝手に殺すことはできない。報われるか報われないかは関係がない。彼らが生きているから、彼らに動かされる。それだけなんだ。

今日、彼が私を叱っているとき。本当に冷たい顔をしていたのに、私はそこに悲しみを見た。そういう人じゃないんだろう、と思った。願望かもしれない。勝手に補完しているだけかも。しかし怒りの中に悲しみが見えるから人は面白いし、描きたくなるのだ。それだけは事実。そんなもん嘘っぱちだと言われても、私はこの事実に生きていてほしい。命を吹き込みたい。

今日のこともいつか書くんだと思う。私が、生きてさえいれば。