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アジア1の広告プランナーに「バズらない」と言われた映像をバズらせた話


*注意*

この文章を読んで得られるのは僕の歴史だけです。
この文章を読んで失う時間10分と天秤にかけて、人生の10分を使って
こんな小僧のことを知ってやろうという心がウユニ湖畔級に澄み切っている方か呼吸すること以外にやることが無い超絶暇な方だけご覧ください。

また、この文章は、普段一切ものを書かない僕が
Twitterに勢いで書いたオ◯ニーみたいな自伝なので、非常に長いうえに、
やり遂げたあとのアドレナリンだけで書き上げたものなので、非常に読みづらいです。

いつか、きちんと自己プロデュースをするために、それなりの文章に修正するかもしれません。


『ムサビに入って良かったー』


田舎のヤンキーの気づき


元ヤンキーで1こも勉強できなかったから、高2の2月のとき偏差値34。数2の期末は3/100点。

「おれなんにもなれない」って思ってから漠然と世界を変えたくて、そのためには勉強が必要だからって1日12時間スタバにアイスティー1杯で通いつづけて勉強しつづけて、ターゲット1900が臭くなるまで読み込んだりして。

そしたらなんと高3の9月に数学河合記述で満点とって、偏差値76になった。

でも11月には英語センターは67/200点だった。ゲンナリ。その時期に3割とか笑えなすぎ。でも、今まで溜め込んできた貯蓄がおれにはあるって信じ込んで意味分かんないくらい毎日センター英語の過去問1日1問必ず解いて。そしたら本番は発音1問しかミスんなくて198点とれた。

そんなことしてたもんだから、やっぱり大学受験終わる頃には頭の中で絶対崇拝したたのは「偏差値」なんていうクソちんけなもんだった。

成城大学に入学


結局そのおかげで入れた成城大学に現役で入学。その時はあのクソ馬鹿だった俺が偏差値20~30くらいあげて入れた大学だからほんとに嬉しかったんだけど、でもその大学で受けた初めての社会経済学の授業でびっくりしちゃって。

みんなが大講義室でズラリならなんで必死こいて教授の話をうなずきながらノートに書いてるのは「どうやっていいとこに就職して、幸せな家庭を持って、死んでいくか」の勉強。でもそこは、それがみんなにとっての「当たり前」っていう世界だった。

否定するつもりはない。でもなんかそれが宗教みたい。死後の世界が何もない、今の安定した暮らししか信じることができない日本という国が生み出した新しい宗教みたいで。俺は変わり者だったからかわかんないけど、そんな先生も、周りの友達たちも、めちゃくちゃ怖かった。

そういえば、受験期に漠然と考えてた「世界を変えたい」ってなんだ、って、このとき初めてちゃんと考え直した。

政治家になって法律を変えてより良い日本にすること?

それとも実業家になって、素晴らしいサービスを運営して日本を変えること?

それとも革命家になって武装して日本転覆させたら世界を変えられる?って一瞬考えたりして、でもすぐにそんな自己満足で一体どれだけの人が苦しむの?って我に返った。

じゃあ「世界を変える」ってなんだ、ってずっと考えた。自分はなにで喜びを覚えて生きてたんだろう。なにでモチベーションを上げてきたんだっけ。なにをもってして生きる意味を必死で信じてきた?

そう考えて記憶をめぐらせたら、思いの外考え始めてすぐに答えは出た。
子供の頃に見たCGの映画だった。

ピクサー、ディズニー、ドリームワークス。子供に夢を与える3Dアニメを見て、おれは頭悪いからすぐ感動して泣いちゃって、そして、夢をもらえた。
「こんなふうに感情をゆっさゆっさ揺らしながら生きていいんだ。
自分の気持ちいいとかっこいいを信じて、それにすべてをかけて生きていいんだ。
それが答えの世界がたしかにあるんだ。」と。
(この気持ちは「シング・ストリート」という映画を観たら、皆様にもより鮮明にご理解いただける気持ちかもしれませぬ)

それを文字化した。どうやってこんな夢のような世界を作り上げるのか。自分の明確な「目標」として、概念としてその感覚を自分の中に確かな味として落とし込む必要があった。これまたすぐに答えは出て、10分くらい考えてたどり着いたのはわりと自分でもしっくりくる答えだった。

世界は何で出来てるの?政治とか、宗教とか、国とか、経済とか、会社とか?
いや、違う。
世界はひとりひとりの「個」である「人」から成り立ってる。
人がひとりひとりが思うことは違うし、ひとりひとりの見えてる世界が違って、ひとりひとりのモチベーションとひとりひとりの心の状態は違う。

だからおれは、CGアニメみたいな夢のある作品を通して、観た人それぞれに
「あっ、なんだ。世界ってすごいあったかいもんで、私もっと楽しくやりたいことやって生きられるところなんだ」って思ってほしい。
そういう世界を創りたい。それが俺が漠然と考えてた、「世界を変える」、すなわち、「ひとりひとりが見えている世界をより素敵な場所にする作品をつくる」ことだった。

「200万出して入れてくれた大学、やめさせてください。」


そこで親に土下座して頼んだ。超お金ない親に頼んだ。

「いまの大学やめて美大に行きたいです。おいら映画監督になりたいです。もう一度大学を受験させてください。」

「は?」って言われると思ってた。「いいよ。」だった。二つ返事だった。父ちゃんも母ちゃんも。涙が出た。ボロボロ泣いてしまった。

おれ、心の底から父ちゃんと母ちゃんのもとに生まれて良かったって思った。

2014年4月。1年で成城大学を中退して、また1浪のくくりでムサビに入学した。ちょっと怖かった浪人生としての1年目は、美大の中では霞んじゃうくらい浪人生がいたから思ったほど悪いもんでもなかった。

それどころか、死ぬほどかっこいい空間だった。

「◯◯のブランド着てたらダサい」って言われた成城と違って、「いいもの作れるやつがかっこいい」世界だった。

もはや日本とは思えなかった。異世界。桃源郷。

おれ、この最高の空間で、作り続けようと思えた。

奇跡のような人間たちの宝庫


美大の最高なところ。それは、すごい教授がいるとか、専門的なことを学べるとか、なんかそういうことじゃない気がした。そりゃもちろん完全な主観だし、いい学科に入ればそりゃそうなのかもだけど、でもおれにとって何より最高なところは、周りにほんと〜〜〜〜に「ものづくりに本気なやつ」が多いところだった。

何千RTもされるようなドットデザインとフォントデザインの魔術師村石とか

500万のカメラひっさげて武道館でVJしたりジャンボジェットにPM射影したりする市川とか

意味わかんないほどいい曲を作りまくって、またそれが死ぬほどいいグルーヴで、音楽と映画を誰よりも知ってる自己追求とユーモアの化身の足立とか、

とにかく凄いやつが多すぎて。
でも、おれはそいつらと比べて笑えちゃうくらい浅くて何もなかったから、
やっぱり課題や制作や遊びの都度、影響された。

苦しい時期。三ツ葉のクローバー(カタバミ)も湯がいて食べた。


影響こそされるものの、その都度やつらと同じ方法踏襲したって二番煎じでしかないから「俺は俺の道で!」っていろんなことやった。
でも勿論壁にぶつかった。
「ムサビ」っていう、真っ青でキレイで魚が沢山いる川に来たはいいけど、
いざ自分も何かを見つけようとなると、まるで目隠しして魚を狙ってるみたいな感覚だった。

バカみたいにでっかい失敗とかもした。
人を相当数巻き込んでやろうとしてたプロジェクトだったからこそそれがぽしゃっちゃうなんて全く想像すらしてなかったことだった。
苛まれて、悩んで、いろんなすごい人の作品を見まくって。
でも引いちゃうくらい自分には何もなかった。

苦しかった。すごく、とてもとてもとても。

苦しすぎて、やり方がわからなすぎて、自分で自分が面白くなくなっていくのがわかってた。
あぁ、どうしよう、おれこれで面白くなくなったら、
せっかくこんな面白いRPGみたいな世界を見つけたのに、その中の村人NPCになっちまう。
でも、ひょいと答えを教えてくれるほど現実は甘くないんだ。これはゲームじゃねえんだから。

自分だけの色がほしくてしたことは計り知れなかった。
おれには村石みたいにデザイン好きじゃないし、市川みたいな神がかってるプロデュース能力はないし、足立みたいな芸術の蓄積もない。
でも、いやだからこそアウトプットしなきゃって思って、
それでも腐らずに、ただただひたすらにアウトプットし続けた。
学生時代は自分の映像の能力を高めるためならひたすらタダで働いていたと思う。

だからお金もまっったくなくて、服とかゲームとかデートとか飲みにかける金があれば、ぜんぶ自主制作に充ててた。結局別れちゃった彼女も全然幸せにできなかった。電車賃が1円足りなくてバイトに行けないこともあった。小麦粉を練って焼いたものが主食の時期もあったし、湯がいてアク抜きしたクローバーをおひたしにして食ったこともあった。

ある日、自分が「何か」になりかけてる気がした。


それだけ頑張ったところで結果出してない自分が何にもないことがわかってたから、
自分が尊敬するやつとできるだけ仕事して、
そいつらと同じ方向目指す制作をする過程で自分もそいつらと重なっていこうとしてみた。
多分その積み重ねで、そいつらの感覚を自分にシンクロさせるような感覚に陥った。

そんな中でたまに「いける」って思えることはたしかに出てきてた。
自分が好きだったカルピスのCMソング歌ってるサクラメリーメンってバンドに声をかけたらつながれたりもした。
一緒に仕事始めたりして、でも結局それも途中でぽしゃっちゃったし、さんざんな目に合ったけど、そんなときにふと思った。

「あ、この経験、多分他のやつしてない。」

いつしか他人に重なって、シンクロしながら奪っていった能力で、
それを自分だけの経験にし始めた。
自分が何かになってたような気がした。

そういう過程でほんとに信頼できる同じ学科の元希と遼紀とふたりで会社みたいなのもつくって、ほのかりんちゃんと仕事できたり、その作品がたまたまテレビのゴールデン番組のEDに抜擢してもらえたりもした。

盲信と邁進。

何を信じてこんなに頑張れてるのかわかんないけど、
でもバカみたいに信じたもの全方向に頑張るわけだから、
ずっと思い描いてた「映画監督になりたい」っていう笑われるような夢は
どんどん膨れていく一方だった。

映画監督になるために、卒制でやりたいことをあえて封印する。


だから就活も、優秀な監督(=ディレクター)が多いCM制作会社のディレクター職に絞ってやった。卒制もその頃は映画を作るって決めてた。

結果的にそういう自信によって、TYOっていうCM会社のディレクター志望で内定をもらった。

でも会社に入ったからといって映画監督になれるわけでもないし、そのためのディレクターになれるとも限られてない。

だから、これが今回の卒制の話につながった。

俺は映画監督になるためにはディレクターとして大成する必要があって、そのためにディレクターとして会社の偉い方々に認めてもらう必要があるってわかった。

それに俺は周りのCM制作会社受ける連中が受けてた中島信也先生の「CM映像研究」の授業をとり損ねてた。

だからこそ、卒制ではずっとやりたかった「映画をつくること」ではなくて、

(1)自分のCMをディレクションする能力を高めること(2)CMディレクターとして大成するようなものをつくること(3)どうか少しでも流行って世間に認知してもらうこと

の3つを十分条件として達成できる卒制をつくる必要があった。そこで生まれたのが、今回の卒制だった。

アジアで一番のバズらせ男に言われたその言葉は「これ、バズらないよ」。


今まで「バズった」経験がない俺が、卒制を作る前にあるプロに出会う機会があった。それは今も世界で一番尊敬する人のひとり、博報堂のバズマシーンと呼ばれる凄腕「バズ・クリエイター」栗林和明さんだった。彼と仕事した時に、ちょうど自分の卒制を3本だけ作り終えてた。全部で10本になる予定だったんだけど、その状態の3本を彼に見ていただいたときに言われた悲劇的な言葉は今も覚えてる。

「これは(バズらせるの)かなり厳しいと思う。」

40under40でアジアで唯一選ばれた栗林さんの言うことだから、多分間違ってないんだと思う。バズらない。恐怖しかなかった。

でも、何か引っ掛かった。この人、多分見えてない何かある。俺が感覚的に世の中から感じていたなにかと、多少のズレがある。しかも、多分、それ以外の何かの雑念が見える。自分に対しての敵対心か、自分の無力さを嫌うようなオーラか。

2択。 自分を信じるか、アジア1の男を信じるか。

答えは多分もう出ていた。3年間も失敗し続けて来たんだ。ビビってどうする。最後の戦いだ。どちらを信じるかなんて、決まっていた。そのとき3本をタッグで監督した元希に誓った。

「残り7本、俺ひとりで作り抜いて、そして、俺は絶対に1000RTを超える作品を作る。」

100の失敗や、50の半端な成功より、たった1つの大成功。
それが「自分を信じる根拠」を作る。

半年かけて制作した。色んな人の力を借りた。

デザインはおれできないから、後輩の超優秀なデザイナー坂本達郎くんに。

役者は深みがある本当に優秀な人に任せたいから、演技力一番尊敬してた足立光太郎に(歌も)

そして何よりともに10本のうち3本タッグで制作した監督は、同じTYOの同期になる、相棒・岩﨑元希に

それ以外にも、おそらく100人を超える人達に助けてもらって、この卒業制作は成り立ったんだと思う

40under40でアジアで唯一選ばれた栗林さんが見えてなかった補集合、俺には見えたよ。

そしてこの卒制を人事の方々や社長にも見ていただいて、TYOの入社式では答辞を詠ませてもらった。

もがいて、あがいて、でもその中で、まぶたの裏だけで思い描き続けた「成功」をもぎ取ること。
有言実行できたことが、今、受験で成城に受かったあの瞬間より初めて上回る嬉しさ。

こんなに嬉しい事はないんです。

おれは止まらない。ディレクターとして、アーティストとして大成するんだ。

そして必ず、3DCGアニメの勉強を一生懸命して、いつか40歳くらいになったらCGアニメの監督やってやるんだ。

その過程で死ぬのなら後悔はない。熱い思いで、一生懸命みなさんと向かい合います。

頑張ります。


かしま・モンティライミ

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