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「共生(symbiosis)」 について


いきなりなんの話かと思いますよね・・・。備忘録がてらちょっと記事にしてみます。

最近、「共に」という概念について深く考えることが多くなりました。

きっかけはコロナウイルスです。先日、哲学者がコロナとの「共生(symbiosis)」についてコメントをしていました。

新型コロナは「敵」ではない。哲学者が説くウイルスとの「共生」
「われわれは戦争状態にある」「直面しているのは他の国や軍ではない。敵はすぐそこにいる。敵は見えないが、前進している」 フランスのエマニュエル・マクロン大統領が3月中旬の外出制限発表に際し、新型コロナウイルスを「敵」と名指して以降、この表現はパンデミック下の指導者たちの新たな紋切り型となった。 ...
https://forbesjapan.com/articles/detail/33797

当初私は、なるほどなと思いましたが、しばらく考えてみると違和感を感じるようになりました。

その違和感は、なぜウイルスに人称を与えてしまうのか、というものです。とりわけ、「あなた」に近い二人称を与えていることに疑問が湧きました。

つまり、敵とか共生という言葉には私とあなた(コロナ)という関係性が読み取れます。ウイルスに対して感情移入しすぎではないかと思います。もちろん、やり場のない感情をぶつけるためには仕方のないことかもしれません。


ところで、ウイルスは生き物なのでしょうか。これがまたとても興味深く、生き物ではないという意見もあります。生物の最小単位を構成する細胞を持たないので生き物ではないと言えてしまうのです。

仮に、生き物ではないとしたら、それはモノです。モノに対して敵や共生などという考えを持つことは不自然ではないでしょうか。極端な例ですが、私たちは椅子を敵として扱うでしょうか。

私の考えは、「〜も(with)」というものです。

つまり、コロナも、あなたも、私も、椅子も、車も、花も、鳥も、、、etc

何を言いたいかというと、敵とか共生とかの前に、ただ「ある・いる」存在としてコロナを捉えてもいいのではないかということです。

(それぞれが)ただある
関係している
影響しあっている       ←◉
互いに認識している
ーーーーーーーーーーーー
共存している/対立している  ←◉
共生している/滅ぼし合う

このように、モノ同士の関係の仕方には様々な段階・パターンがあると思います。

私は、影響しあっているくらいの認識でもいいのではないかと考えています。もちろん、危険なウイルスですので、徹底的な対策が必要なのはいうまでもありません。


人称を与えることで、距離感が縮まりより理解しやすくなることはあるかもしれません。ですが、その一方で明確な断絶を生み出してしまう可能性もあります。

コロナが流行しだした頃、日本の観光地が「中国人」お断りとしたり、欧米人によるアジア人差別があったり、東京から帰省した家族を検査もせずにただ隔離したり(知人の話)と様々な断絶が生じています。非常に残念に思います。

そのため、一度コロナとの正しい距離を見い出すために敵か味方かという二項対立で捉えず、この世界にコロナ「も」いる、くらいに捉え直しても良いのではないでしょうか。

こんなことを最近考えています。