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【自己紹介】

〜空をもっと身近に感じられる世界を目指して〜

FLY JAPAN

【経歴】
1989年8月21日生のしし座、姉、兄に続き、次男として生を受ける。
大阪は泉佐野市生まれ
山と海に囲まれた自然豊かな土地、毎年秋に行われる伝統ある『だんじり』と言われてるお祭と、タオル等の繊維工業が盛んな街、また関西国際空港があり、大阪まで1時間かからないという、陸空共に交通の便が素晴らしい街です。

家は元々農家で田んぼと畑をやっており、お米を中心に生産してました。
お米は家で作ったものしか食べた事がないような生活でした。

《0歳〜6歳》
持病の小児喘息で発作の度に、入退院を繰り返し辛くて死ぬんじゃないかと思いつつも、家族のサポートとお医者さんの手により、なんとか死なずに生きのびる。

《6歳〜》
両親が離婚、兄弟3人揃って父に着いて行き、父子家庭となる。
小学一年からは、父が仕事の為、家事は兄弟で当番制により行い、料理、洗濯、掃除等、一通りの事は出来るようになりました。
父の想い入れにより、色んな分野の事を体験をさせてもらえる環境にありました。

小学3年からは『ボーイスカウト』に入団をし、アウトドアや社会貢献活動にも協力させてもらいました。

中学3年間はソフトテニス部で部活三昧な日々、毎日が部活中心に回っていてとても充実した日々でした。
また3年の時、当時流行っていた『175R』をきっかけとして、同級生とバンドを組み、ドラマーとして高校1年までやってました。

《15歳〜16歳》
大阪府立日根野高校に1年のみ在学し、音楽業界で暮らしていきたいと思い部活はせず、ホームセンター、ファストフード店、郵便配達等、バイトでバンドの活動資金をやりくりする日々。
しかしながら、変わらない日常生活に面白く無くなり、興味本意で父に紹介されていた父の母校でもある『少年工科学校』という神奈川県横須賀市にある、俗に言う『自衛隊の高校』に元の高校を中退し、16歳で入隊する。

《16歳〜18歳》
武山駐屯地にて3年間、厳しく規律正しく理不尽な生活を虐げられ、1000回程「嫌だ!辞めてやろう!」と思い、何度も挫折しかけながらも無事に卒業する。
ここで部活を2年間、フラットウォーターレーシックでカヌー(カヤック)をやり、途中怪我がキッカケで転部、銃剣道を1年、それらと並行して3年間、軽音楽部でドラムをやっておりました。
自衛隊ならではの知・徳・体を教わり、「愛国心」という考え方を学ぶ。

《19歳〜22歳》
自衛隊の高校を21年3月に卒業後、茨城県土浦市の「霞ヶ浦駐屯地」にて、多用途ヘリコプターUH60JAの整備員になる為の専門学を学び、同年12月に三重県伊勢市の「明野駐屯地」に赴任、約2年半ヘリコプターの整備に携わる。
伊勢神宮が近く、庭のように通ってました。
自然豊かな田舎暮らしに慣れ、自転車や山登り等のスポーツに興味を持ったのもこの時期でした。

《22歳〜24歳》
刺激のある人生を過ごそうと思い、戦闘機乗りを目指すが、試験に受からず、ヘリコプター操縦の道へ変更、「陸曹航空操縦課程」の選抜試験を受験し合格、平成25年6月から栃木県宇都宮市「北宇都宮駐屯地」で1年9ヶ月、ヘリコプターの操縦をOH-6Dを通じて学ぶ。

選抜試験を受けたきっかけも、人生楽しくという志が突き動かした結果の一つです。
宇都宮では、操縦技術や操縦士に必要な知識(工学、法規、通信、管制、気象、英語等)、さらに自分の人間性を磨く場にもなりました。

《24歳》
平成26年2月、7回もの査定を潜り抜け国家試験に合格し無事に卒業、「事業用操縦士(回転翼)」免許を取得する。
同時に千葉県木更津市「木更津駐屯地」に転属、航空操縦士として勤務を開始、同年10月には輸送ヘリコプターCH-47の機種転換を修了し、部隊で飛び始める。

この頃並行して、職業の仕事に対する志の点で疑問を抱き、プライベートでは仕事外の方達と交流する機会が増え、物事に対する考え方がガラリと変わる。

《25歳〜26歳》
自分に人生に対する志が芽生え、楽しいことや自分のやりたいことを追求し始め行動し始める。
自分が思い描く未来や夢を手に入れるには自分がやりたいと思うことを「やるかやらないか」それだけの事、楽しいと思う事をやり続けれる人生を送ると心に誓う。

《27歳〜》
自衛隊を退職、事業家の道を歩み始める。やったことが無いことに挑戦する事で己の使命と存在意義を自覚し、個人投資家からチャンスを与えられ、不動産業界、人材業界、IT業界の経営者となる。

《30歳〜》

3年間の経営者としての任期を追え、MaaS系のエアプラットフォーム株式会社AirXの事業開発としてジョインする。前職、前々職のキャリアをフルに生かせる環境で今までにないものをカタチにすべく日々奮闘中。

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