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「ネットレ」に捧げた私の社会人1年目

入社前の採用面談の時から「これからはオンライントレードの時代だ!」と言い続けてきた。

当時のコスモ証券は殆ど対面取引型でコールセンターの待ち受け型「株通ダイヤル」が立ち上がった頃だったと思う。新卒で入った子は、1年間支店で営業を経験させる。という育成ルールの元、私は奈良支店に配属された。毎日テレアポと飛び込み営業の日々。奈良支店の目の前には奈良公園があって、毎日のように鹿に餌をあげてのんびりしていた。

当時の新人育成方針は良く覚えていて、一番最初は「名刺獲得枚数」。何週間後かの次に、「口座獲得件数」、その次は「預かり資産額」で、同期男子50人位で順位が付いていたのだったと思う。

当時、金融ビックバンとやらで時価会計化と同時に投資信託の含み益を1年で吐き出さなきゃいけないルールの歪により、絶対に高配当が期待できる安全な公社債投信がいっぱいあった。多分同期でも知っている子は知っていたと思うし、上手に説明できれば飛ぶように売れた。(当たり前だし、今あれば欲しい・・)そのかいもあって、私の成績は上位10番くらいをいつもウロウロしていた。大体証券に来る中で上位一割はザ・営業って子達なので、そのあたりには食い込めないけど、充分良かった。この頃経験した営業のノウハウは今でも自分にとっては貴重な財産になっている。

営業にいそしんでいたその頃、トライアルッぽい感じで動き始めたコスモ証券「ネットレ」は「定額制」という業界に風穴を開ける新サービスを打ち出した。参加したくてウズウズしていた自分はルーティーンワークとなった営業の隙をついて、完全に過疎っていた社内グループウェアの掲示版だかご意見番だかに、「やりたい!ネットレ、創るの参加したい!」と、熱い気持ちを書きまくった。ああいうものは、社内の99%は見ていなくても、設置した担当者や許可出した新しい物好きな役員とかは、見ているもので、1年研修ルールを私だけ破る形で、3ヶ月で大阪本社のメディアマーケティング部に異動した。部長も私の書きなぐったものを見ていた口で「面白い事をさせてやる!」と言ってもらった。自分の仕事は会社のホームページ管理者、そしてネットレの企画やシステムテスト、コールセンターにかかってくる仕様上の説明(殆どバグだけど)なんかだった。新しい事ばかりで、覚える事ばかり。毎日始発と終電を繰り返した。大量のクレームを電話で受ける中、派遣で来ていたお姉さまに電話応対を教わって、これも一生もののスキルになったと思う。

1ヶ月も経たない頃、ネットレ全体の東京移転が決まり、大阪を離れられない当時の次長(直属の上司)から、3ヶ月間で業務の間を縫ってネットレの仕様を全て叩き込まれた。当時のネットレは本当にバグだらけのビックリ仕様で、大証には繋がってなくてメールで飛んでくるのを主導で受注、とか、携帯からは取消注文が受けられないとか、当然やらなきゃいけない基本仕様が装備されていない状態でマンパワーを費やして何とか回しきっていた。新しく何かを実装させるたびに土日にシステムテストを行い、月曜日にバグによるクレーム祭りを繰り返した。予算が無くてテストサーバが無く、本番サーバを止めてしかテストできず、更に市場が立っているリアルな本番環境ではテストできないという冗談みたいな環境で、会社に泊まり込んでテストし、メールを書き、アナウンスして、ダメダメでありながらも、ちょっとずつ進化していくネットレという我々の作品を、恥ずかしく、誇らしく思いながら、毎日を過ごした。

東京ではシステム担当の責任者として、対外業者との折衝も行うようになった。当時は何となく自分の仕事と思ってやっていたのだけど、この頃自分が受け付けていた新規営業からの提案アプローチ、決裁権者への持って行きかた等、客側の受けてとして経験する事によって、沢山の一流業者から濃密なレクチャーを受けていたようなものだ。法人営業やお客様折衝のイロハは、間違いなくあの頃身に付けて行ったのだと思う。

誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで残っていた。本当に楽しくて、充実した毎日だった。今でもあんなに没頭して幸せな1年目を過ごさせてくれたコスモ証券や上司たちには本当に感謝している。

去年の年末、大阪の頃の上司やメンバーと飲みに行った。ブログ書いていたら、色々思い出してしまうね。あの頃つらかった事や苦しかった事も、きっとたくさんあったのだと思うけど、人間関係はとても良かったからかな。本当に良い思い出ばかりだ。

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