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2つの偶然から生まれた会社が育む、たった1つの大きな夢

価値あるツールを世界中の多くの人が使えるようにーーそんな想いを持ち、私たちRicksoft(以下リックソフト)は事業を運営しています。代表の大貫浩は大学卒業後、大手電機メーカーに入社し、フリーのプログラマを経てこの会社を設立。すでに創業15年、振り返れば数奇な運命の連続から会社は生まれていたのです。

プログラミングとの運命的な出会いは隙間日程での受験

私の小さなころの夢は、街の電気屋さんになること。もともと、モノづくりが好きな子どもで、レゴを組み立ててロボットを作ったり、動かなくなってしまったテレビの中を開けて、自分で修理したり。

特に家電製品が好きでした。なぜなら、いろんな製品を知ることもできるし、電気回路の構造などを勉強すれば自分でイジることもできるわけですから。そんなちょっと変わった理由から、将来、街の電気屋さんになりたいと思っていたんです。

その夢は、大学受験をむかえても変わりませんでした。なので、電気回路について学ぶことができる、工学部の電気電子学科を中心に受験していました。

ただ、思わぬところで人生のベクトルが大きく変わることになります。受験期間中、日程の都合で、一日だけポロっと空いた日がありました。それならばと、軽い気持ちで明治大学の理工学部情報科学科を受験したのです。

「情報科学科」とは、コンピュータサイエンスのことで、Google等のテック系ベンチャーに就職するには最も有利な学科と言われています。で何を思ったか、明治大学のその学科に進学することになりました。

正直、入学前は何をするところかもわからなかったのですが、そこで私はプログラミングと運命の出会いを果たします。とにかく面白くて、夢中になりましたね。

研究室のみんなとソフトウェアを開発したり、システム会社でプログラマのアルバイトをするなど、まさにプログラミングの虜。大学受験の出来事は、私の一つの転機と言えるかもしれません。

大手を3年で退職。26歳、実務経験はないがフリーに

そんなプログラミング漬けの大学生活を終え、私は新卒で日本電気(NEC)に入社しました。そうですね、1999年のことです。大学からの推薦でいくつか電機メーカーを選ぶことができたのですが、私が初めて手にしたパソコンがNECのものだったこともあり、日本電気に決めたんです。

ただ、配属されたのは技術支援部門。営業やSEに技術的なサポートをする部署で、プログラマ志望だった私は、当然、モヤモヤな日々を送ることになり(笑)。

ただ、プログラミングは絶対に続けたいということで、趣味として続けていて、入社から約3年半ほどした頃、第二の転機が訪れました。当時まだ珍しかった電子財布を開発するベンチャー企業との出会いです。

そこで、「電子財布のシステムを作るプログラマが必要だからやらない?」と声を掛けていただいたんです。

私は、「プログラミングを仕事にできるのなら」と、日本電気を退職し、思いきって、フリーのプログラマに転身しました。これが、2002年頃のことです。

しかし、そのベンチャー企業のビジネスは思ったほど成長せず、3年ほどで私はそのプロジェクトから退くことになりました。その後、私が選んだ仕事は、金融系のSEでした。

この仕事では、当時はまだ珍しかったJavaを使ったプログラミングの設計やWebシステムの構築、開発支援ツールをつくるなど、徐々に仕事の幅が広がっていきました。システムの現場のことがよく理解できるようになったこの仕事との出会いが、現在の我が社の礎をつくることになったんです。

お客さんとの関係が深まるにつれ、より大きな仕事を任せてもらえるようになると、いよいよ私一人だけではまわらなくなってきました。ある時、常駐先のお客さんから「君にもっと大きな仕事を振りたいから契約の面でも、リソースの面でも法人化してやって欲しい」と言われたことがきっかけとなり、2005年1月、リックソフトを設立することになったんです。

会社が急拡大したキッカケ。それは、2年間の翻訳ボランティア

自宅である茨城県龍ヶ崎で創業した私はまもなく、5人の社員を迎え入れました。

この社員の中に、英語で書かれたオープンソースのソフトウェアプロジェクト「Apacheソフトウェア財団」のソフトウェアを、日本人でも使えるように翻訳する者がいたんです。これに刺激を受け、「貢献」することに目覚めた私も、翻訳ボランティアの活動を始めることにしました。これがそう、創業から2年がすぎた2007年のことです。

今から考えると、このことが私にとって一番大きな転機になったと言えます。この時に出会ったのが、「アトラシアン」だからです。ちなみに私たちリックソフトでは主に、プロジェクト管理ツール「JIRA」や企業向けWikiシステム、社内コラボレーションツール「Confluence」など、アトラシアン製品の導入支援とソフトウェア開発を行なっています。

話を戻しますと、「Apacheソフトウェア財団」には当時150個ほどのプロジェクトがあって、そのうち半数がアトラシアンのConfluenceを使いドキュメントが書かれていたんですね。私達が翻訳すると決めたプロジェクトでもConfluenceが使われていました。その翻訳はポランティア10人程度で行ったんですが、ボリュームが多く完成までに結局2年かかりました。

ただ、それだけアトラシアンの製品を使っていると慣れますよね(笑)。そして実際に使ってみるとすごく使いやすいソフトウェアだと実感したんです。

この製品を「日本でも広めたい!」と思って調べてみたら、販売パートナーを募集していて。早速、当時はまだそこまで大きくなかったアトラシアン社にアポイントを取りました。すると……数日後には同社のマネージャーと、あるホテルのロビーで会うことになったんです。

そこで、純粋で、熱い想いを伝えました。

「今まで翻訳活動でConfluenceを使っていて感動した」                  「だからこそ日本のパートナーとなって、日本でも広めたいんだ」

と。すると、びっくりするくらいあっさりと承諾をもらえたんです、ものの30分で。まぁ、2年間、翻訳ボランティアをしていた甲斐があったなとも思いました(笑)。

しかもパートナーになる日本企業はウチが初。これも大学受験のときのデジャヴなのですが、パートナー契約締結後、日本企業の中でも大手企業で先進的な取り組みを行っている部署がアトラシアン製品を使っているということが分かったんです。

そのこともあって、弊社のホームページで「アトラシアン製品の日本初のパートナー」になったこと、「ライセンス販売と導入サポートをすること」を掲載すると、勝手に問い合わせが来るようになりました。しかも問い合わせは、一流企業ばかり。また、プロジェクト管理ツールで困っている企業が多いんだということも痛感しましたね。

そこから弊社はアトラシアン製品のパートナーとして、2014年度は「日本での売上第1位」、2015年度と2016年度の2年連続「アジアパシフィック売上第1位」に。急拡大の要因は、まさかの翻訳ボランティアだったのです。

今、新しい夢がある。メイドインジャパンで世界を魅了したい

私は、フリーランスのプログラマを経て、2005年にリックソフトを創業しました。今は2017年、もう12年が過ぎたわけですが、私たちの使命は変わりません。

価値あるツールを世界中の多くの人が使えるようにすることーー価値ある道具を使い活用したその先にあるのは、新しい働き方が可能となり、組織の生産性が飛躍的に向上した未来です。

また、価値あるツールは、時間や場所の制約も緩和するだけなく、組織に俊敏さをもたらし、少人数での目標達成を可能にします。そして、魅力的な製品・サービスの誕生を助けるわけです。このことを、アトラシアンの製品が教えてくれました。

そして今、私には新しい夢があります。それは、「メイドインジャパン」の価値あるツールを作ることです。それを通して、日本から世界で使われるようなプロダクトを生み出していきたいと思うのです。

価値ある道具やツールは海外製のものがほとんどで、私はそれをずっと悔しく思っていました。弊社の現状としても、ソフトウェアを海外から輸入する技術商社の色合いが強い。

しかし、それだけでは、「技術者集団」として楽しくないと思うのです。これからは私たちが価値あるツールの発明者となり、「メイドインジャパン」の価値あるツールで、世界中の魅力的な製品とサービスの誕生を助けていきたいと考えています。

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