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リフト株式会社で私がやりたいこと

1 初めに

 ストーリーをご覧頂き、ありがとうございます。

 初めまして、リフト株式会社で代表をしている杉村と申します。

 会社のWANTEDLYページをご覧頂いた方に、より会社のことをご理解頂く為に、

 私自身と会社のことをご紹介させて頂きます!

 少しでも興味を持って頂ければ幸いです!

2 私の自己紹介

 私は、1979年に北海道の函館市で生まれました。両親共に公務員で、3人兄弟の長男です。

 祖父の曽祖父(ややこしい。。)が、明治維新の際に、秋田県から函館に来たらしく、それ以来代々函館市で暮らしている一家です。

 高校生までを函館で過ごし、大学は東京の早稲田大学に入学しました。

 大学では、バンドサークルに所属してベースを担当していました。

 函館出身のヒーローであるGLAYとJUDY and MARYのYUKIさんが、私の少し先輩世代だったので、当時の函館市は空前のバンドブームで、GLAYのコピーバンドが多かったように思います笑

 大学のサークルでは幹事長も経験し、ほぼサークルが90%、5%アルバイト、5%学業というぐらいのバランスで力を注ぎ、友人の力を借りて何とか単位だけは要領良く取得していたという、今思えば、とんでもなくもったいない学生生活を過ごしていました。

 楽しい学生生活を過ごして流れで就職活動という中で出会ったのが、株式会社ベンチャー・リンクという会社です。当時は、東証一部に上場していたコンサルティング会社で、「起業家輩出機関」というキャッチフレーズで、独立、起業を前提とした採用を行っていて、採用説明会で聞いた当時のCEOの話は、公務員一家で育った私には、とても新鮮で衝撃的でした。

 無事に内定を頂いて、株式会社ベンチャー・リンクに新卒として入社をし、結局7年間お世話になるのですが、このベンチャー・リンクで経験したことが私の社会人としてのベースになっています。

 コンサルティング会社ということでしたが、配属されたのが営業部門で、独立前提という採用の為、「独立したら残業もくそもない」「経営者感覚で仕事をするべき」というロジックが部門の哲学になっている感じで、月曜日から土曜日まで朝9時から終電までが仕事時間という生活でした。

会議は営業先のアポが入らない夜8時以降にやるものだと思っていた気がします。

 ブラック企業と言う言葉が一般的ではない時代でしたし、生まれたてのヒヨコ状態で、仕事と言うのはこれが当たり前だという刷り込みを行って頂きました。

 皮肉ではなく、若いうちにこの経験が出来たことは、今となっては良かったと思います。

 そんなアグレッシブな会社でしたが、何となく「独立」「起業」という言葉の雰囲気に衝撃を受けて入社したため、独立前提の会社に入ったにも関わらず、肝心の独立して「何をしたいか」がしっかり定まらないまま日々の仕事に追われて必死で時を過ごしていました。大変だけどそれなりに楽しく仕事を続けていましたが、120人入った同期が20人位に減っていた入社7年目で、当時いた部署が丸々なくなるというタイミングがあり、その当時担当していた事業を引き継ぐ形で当時の部署メンバー8名と独立することとなりました。

 新しく独立した会社は気心知れたメンバーばかりで、楽しく仕事が出来ていたのですが、自身も出資していたものの、代表は別の方で、周りのベンチャー・リンクOB達は当時会社を立ち上げる方も多く、やはり、独立と言うからには、自分でオーナーシップを持ってやってみたいという気持ちが強くなり、わがままを言って2年後に再独立を果たすこととなりました。

 そして、自分で会社を始めてから約10年経って、今に至るというのが簡単な私の経歴です。

 本当、良く言えば「ご縁」、悪く言えば「感覚」とか「流れ」で、しっかりと先のことを考えずに走ってきたなと書いていて恥ずかしいことばかりです。。


(社員旅行@セブの写真です 痩せている。。)

3 リフトという会社で何をしたいのか?

 そんな私がリフトという会社を経営している訳ですが、リフトと言う会社を通じて何をしたいのか?ということをご説明したいと思います。

 簡潔に言えば、

 「日本で働いて頂ける外国人の方を増やしたい!」

 「日本で働いてハッピーになって貰って、更に多くの外国人の方に日本に来て頂きたい!」

 ということです。

 それは何故なのか?

 こう思うようになったのは、独立してしばらく経ってからの頃です。

 私は、上で書いた通り、何か「これがしたい!」「これを実現したい!」と思って独立をしたというよりは、流れやノリで独立するという、自分でもアホな経緯で会社を作りました。

 ありがたいことに、元々の会社で一緒に仕事をしてくれていたメンバーが入社してくれたりしたのですが、当然、独立したての頃は生きる為に売上を上げることに必死になります。

 やるべきことが定まっていない為、売上を上げる=収入を得る(社員も含めて)為に、出来る仕事を探すということをする日々が2年位続きました。当時入社してくれたメンバーはよく辞めなかったと思います。。本当に感謝しきれません。。

 そんな日々を続ける中で、会社の経営に慣れて、売上を上げて会社を続けていくことは出来るかなと自信が持てるようになった頃、やっと「何のために独立したんだっけ?」ということを考えるようになりました。

 生きて行く為に仕事をするというのは皆さん当たり前のことだと思いますが、それであれば、大きい会社に入社して安定した仕事をした方が良いような気もします。

 独立して自分で会社をやっているメリット?と言えば、「リスクさえ取れば、自分でやる仕事を自由に決められる」ということかなということで、「自分は本当は何がしたいんだろう?」と考えるようになったところで、心に浮かんできたのが、自分が生まれ育った函館の街のことでした。

 皆さん、函館市にお越しになったことがありますか?

 食事はおいしく、景色は綺麗で、気候も良く、江戸時代に鎖国が終わるタイミングで日本の中で初めて開港された街なので、幕末~明治維新の観光名所が多数あります。

 ちょいちょい実施されている観光都市のブランドランキング等では上位になることもありますので、観光地として名前を知っておられる方が多いかと思います。

 素晴らしい街ですので、是非一度お越し頂きたいのですが、観光地として華やかな一方、函館市が所在する道南地域(北海道の南の地域)は、日本の中でも特に過疎化が進んでいる地域です。

 そもそも函館という街は、明治・大正・昭和初期頃までが全盛期で、北海道庁があったり、長らく東京以北で最大の都市(札幌よりも仙台よりも人口が多かった)だったのですが、主要な産業であった造船と遠洋漁業が造船不況や200カイリ問題等のなんやかんやで衰退していった結果、私が生まれた昭和後期から既に人口減少が始まっているという、少子高齢化を先取りしているような街でした。

 函館で生まれ育った私にとっては、「過疎化、人口減少、街がなくなる」という問題は、より身近で、当時意識していなかったにせよ、肌に感じられる問題だったのだと思います。

 函館では、私が通っていた小学校、中学校も廃校になり、良く行っていた本屋さんもゲームセンターもコンビニもスーパーも、帰省する度に無くなってしまっているということが当たり前になっています。

 そんな、函館の街が元気がなくなっていく様子を何とか食い止める!ということが、私がやりたいことなのかもしれないという思いが、今のリフトの事業の出発点になっています。

 そこからは非常に単純な考えで、

 ⇒ 人口が減っていると言っているのは日本だけだろう

 ⇒ じゃあ多くの外国人の方に日本に来て頂いて、働いて貰えばいい!

 ⇒ そうすれば函館のような日本の多くの街も助かるし、何より、人が多い方が賑やかで楽しい!

 ⇒ じゃあ、それを仕事にしよう!

 という流れで、今の仕事をしようと考えるに至りました。

 当時この方面にはど素人でしたので、色々な方に教えて頂いて、また、多くの国に訪れてみました。

 東南アジアを多く訪れましたが、多くの国では首都や一部の地域は華やかで急速な発展が感じられる一方、「自分の人生を自分の努力だけでより良いものに変えることが出来ない、努力するチャンスすら無い」という人たちが多くいることを実感し、ますます、この仕事に価値があるものになるという思いを強くしました。

 その思いから出発して、早くも7年になります。

 「具体的に今、どんなことをしているのか」については、長くなってしまうので、他メンバーの方が書いてくれている記事や、会社のHP等をご確認頂ければ幸いです!

 コロナウィルスの影響に代表されるように、自分のどうしようもないことで大きな影響を受けたり、成し遂げられていることはとても少ないですが、やりたいと思った自分の仕事を、多くのメンバーに参画して頂いて挑戦出来ていることに、本当に感謝しています。

 まだまだこれからの会社ですが、まだまだ多くのことに挑戦したいと思っていますので、力を貸して頂けるメンバーの方を募集しています!!

 少しでもご興味をお持ち頂けた方は、是非私達のお話をお聞き頂けると嬉しいです。

 長文にお付き合い頂いてありがとうございました!





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