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「間」を意識する

自宅で過ごすようになって

昨今の風潮や自粛の影響で、自宅にて過ごすことが増えております。最近は、動画サービスサイトでオンライン授業を閲覧したり、Iphoneから落語やラジオを聞いたりしています。すると、似た条件の形式ですが、受け手の私が抱く印象は異なるのだなぁと気づいたのです。

興味のあるトピックを取り上げたオンライン授業では、内容は面白いと思ったのですが、頭にあまり入ってこず、集中力がやや途切れがちになりました。一方、落語やラジオは面白いだけでなく、内容もスッと頭に入ってくるのです。

その要因は、単に私が落語やラジオが好きであったり、内容がより面白いということだけではないように思います。というのも、例え同じ内容であったとしても、語り手の手腕によって、受け手の印象は0から100に変わるからだと思うからです。実際、同じ落語を聞いても、受ける人とまるで受けない人がいます。これはどうしてなのかなと、考えてみました。


見えない「間」の重要性

よく落語家が言うような「間」の存在 。ここでいう「間」とは、他者との間にある時間や空間を意味しています。これが受け手の印象に影響を及ぼすのではと考えました。つまり、生徒によっては、指導の意味が無くなってしまうのではと感じたのです。

オンライン授業は、いつでもどこでも実施できるため、合理的かつ効率的です。一方で、解いている際の表情や仕草、思考している時の沈黙などを見落としてしまうため、肝心の生徒との「間」を忘れがちになってしまいます。同じ沈黙であっても、知恵を振り絞っている状態と全くわからずにペンが進まない状態は、全く意味が異なります。あえて見守るべきか、切り替えて次の問題へ移るべきかの貴重な判断材料になるからです。

では、「オンライン授業は全く意味が無いのか?」というと、そういう訳でもありません。

この「間」というものは、アナログであれオンラインであれ、あらゆる授業の根底にあるものだと思います。落語家同様、同じつるかめ算を教えたとしても、分かりやすい講師と分かりにくい講師がいます。これは、生徒の一挙手一投足に目を向けて、「間」を意識しているかどうかという違いによるものではと思います。

令和になり、テレワークや5Gといったものがどんどん広がっています。でも、人と話したり、耳を傾けたりするという行為は変わらずに受け継がれています。むしろインターネットが広まったからこそ、この行為の必要性は増しており、特に「間」の重要性を肌で感じています。

昨今の受験問題を俯瞰してみると、コミュニケーションをテーマとした文章が多く見受けられます。一見、時代に逆境しているようですが、社会に出ればよほどの事が無い限り、他者と接しなくてはいけません。10-12才という色んな知識や経験をスポンジのように吸収できる時期に、彼らが大人になっても困らないよう道しるべとなる、「間」を意識できる大人でありたいと思います。

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