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志を、縁を、つなぐ。自分がいるからこその出会いを極め続けるヒューマンキャピタリストという生き方

「今日は少しでも年上に見られたい気持ちがあって」と、お気に入りのライダースジャケットをまとった熊谷裕太郎は微笑んだ。東京は浅草生まれ、浅草育ちの27歳。フォースタートアップスに入社して2年あまりが経ち、シニアヒューマンキャピタリストの道を歩み始めたところだ。


「転職を支援した方から『熊谷さんは玉ねぎの皮を剥くように私の気持ちを引き出し、何もない砂漠にフラッグを立ててくれますね。』と言葉をいただけた時には嬉しくて震えましたね。志を持って仕事に向き合う人が増えたら、この国はもっと成長する。そんなきっかけに携われる仕事をしていることを誇りに思いますし、この“志”事を誰かに伝え話せることも誇らしく感じます。」


フォースタートアップスに出会うまでに培った仕事軸をぶらすことなく、ここで見つけた“Will”を実現すべく、人生と仕事を重ね合わせて日々の挑戦を続ける熊谷のスタンスがある。フォースタートアップスのバリューの一つに「Be a Talent」がある。その意味は「‍スタートアップスの最たる友人であり、パートナーであり、自らも最たる挑戦者たれ。そして、自らの生き様を社会に発信せよ」というものであり、まさに熊谷が思い描く「めぐり合わせ」の価値にも通じている。


【プロフィール】 

熊谷 裕太郎 Yutaro Kumagai
フォースタートアップス株式会社
タレントエージェンシー本部 シニアヒューマンキャピタリスト
中央大学を卒業後、総合系人材企業にて人材紹介業に従事。主に大手金融機関や大手コンサルファームの採用支援を担当。コロナ渦で、人との繋がりが疎遠になるなか、とある産直ECサービスを利用し、生産者の温かみに触れ、スタートアップに関心を持つ。TV番組「セブンルール」でヒューマンキャピタリストの存在を知り、for Startupsに入社を決意。2023年8月シニアヒューマンキャピタリストに昇格。現在、スタートアップのエンジニア採用支援並びにエンジニアのキャリアカウンセリングを強みにしている。


打席に立つ。その覚悟が、エンジニアの採用支援を成功へ導いた

2021年8月、総合人材会社で転職支援を3年間半ほど経験した後、熊谷はフォースタートアップスに入社した。前職ではMVPを獲るなど成果を上げたこともあり、「自分ならきっとやれる」という自信があった。がしかし、熊谷を待ち受けていたのは厳しい現実だった。


入社後の1年間、奮闘したものの成果を上げることができない日々。毎日のようにスタートアップの話を聞き学びインプットを欠かすことはなかった。スタートアップ企業や求職者のサポートしたいという熱意は沸いてがむしゃらに行動するのだが、うまくいかない。熊谷は「飛びつくこと」自体が問題だったと後に振り返った。


「全てのところで活躍したいと思っていたので、機会があればどこにでも行ってしまう。結果として、どこにも力を込め切れていなかったんです。飛びつくことでしか行動ができていなかったので、知識も安定せず、集中した支援に繋げることができませんでした。」


ただ、成果に苦しむ1年間にも、変化の芽はいくつも育った。


入社3ヶ月目に経験した、従業員同士で成長を育むための私塾である「進化塾」での学びはその一例だ。講師としてきた伊藤 羊一さんから「まず打席に立とう。自分に“Can”が増えて、「ありがとう」を言われる回数が増えると、“Will”の片鱗が見えてくる」「試合に出られるようになってから試合に出ようと思っていてはいけない。まずアクションしよう。」などの言葉をいただいた。


そんな折に、あるスタートアップの支援担当として先輩社員から声がかかった。熊谷はエンジニア職の採用を手がけることになったが、当時、エンジニア採用の経験や知識は皆無だった。それでも「ここが打席だ」と言わんばかりに挑戦を選んだことが功を奏した。新しい語学を習得するような気持ちで支援先のテックブログを読み込み、エンジニア上級職とのミーティングや対話を通じて、ありとあらゆる場面で学び続けた。結果、熊谷の熱意は実り、支援目標の倍近い成果を上げることができたのだ。


スタートアップでエンジニア採用に困っていない企業など存在しないと言われている昨今。世の中の後押しもあったのか、熊谷が選択したのは、エンジニアの転職を支援すること。今では熊谷の強い仕事の柱にもなっている。これほどに熱意を持って取り組めるのは、この領域が熊谷が仕事の信条としている価値観とも合致するからに他ならない。


「目の前のお客様に満足していただき、結果として自分も満たされる」と考える熊谷。この価値観はどのように築かれたのか。時計の針は、彼が青春を燃やした日々へ遡る。

人力車夫として2,000名に価値を届けた経験。培われた仕事観

熊谷は、祖父から続く浅草育ちで、「三代目の江戸っ子」。若き日は、野球への情熱に捧げられていた。小学1年生から高校3年生まで打ち込んだが、苦しい記憶も多かった。中学2年生で肘を壊し、高校2年生でも膝の半月板を損傷。二度の手術を経験する。


ただ、それでも野球への情熱は損なわれなかった。「足は速く、守備も得意だった」が、怪我が原因でボールを投げることができず、バットを振ることもできない。いっときは利き手の左投げから右投げへの転向も検討。それでもチームは熊谷を試合に起用した。「投げられないセンター」であり「バントしかできない打者」。熊谷はチームメイトの支えをひしひしと感じながら、野球を続けた。


「『人間万事塞翁が馬。』ということわざがありますが、怪我をしたことは不運に思われることもあるかもしれませんが実際は違いました。私のところに打球が飛んでくると、みんながあえて駆け寄ってきて、守備の中継をしてくれたことがありました。普通に投げればいいところを、怪我をしている私のために起こしてくれたアクションでした。あの時、仲間の存在にありがたみを感じ、仲間の行動に救われました。他人との関わりには、人情を持ち、お互い助け合うことが大切であると心から実感したんです。  今では自身のスタンスにも影響しています。そして、引退の時。『あの時、裕太郎の怪我があったからチームの仲は深まった。』と仲間から声をかけてもらった時に人生の指針が決まりました。信じてくれた人たちに対して、信じてくれたことに恥じない生き方をしようと。
物事には一人で頑張れることもあると思います。けれども誰かと一緒に、誰かのために取り組む時には大きなパワーになります。私は怪我という出来事があったことで気づけたことがたくさんありました。」


そして人生の新たな章は、大学3年生の時、浅草で始まった。野球に区切りをつけ、大学へ進学。幼い頃から歩いていた浅草の街で、いつも目にしていた人力車夫。「カッコいいことがしたい」と思った熊谷の目に、彼らは眩しく映ったのだ。そこからすぐに車夫に。これも運命の悪戯か、門を叩いた会社は車夫に任される裁量が大きなところだったと言う。「お客様の満足のために何をしてもいい」という方針が性に合ったのだ。


車夫は、浅草を訪れた理由を尋ね、希望や想いを汲みながら、巡るコースを提案する。1時間を通して、お客様のために「浅草での思い出のひととき」を叶える。ある婦人にご乗車いただいたときには、先立たれた夫との思い出の道と、走る景色が重なったことで、「あの人にもまた一緒に見せたかった」と涙を流す瞬間にも立ち会った。


「まさに自分が商品で、お客様のためにできることを考え、汗を流し、喜んでもらう。そしてその対価をいただくという循環がとても美しく、心地良いもので、その後の仕事もにつながっていると感じます。」


2年間で時間を共にした乗客は、2,000名を超えるそうだ。

キャリアをスタートさせた人材業界。自社本位な営業スタイルに違和感を覚える。

人力車夫の経験は、確かにその後の仕事選びでも活きてきた。「企業の看板ではなく自らの名前で売れるようになりたい」と考え、「感動の最高潮を作り続ける」仕事として、当時思い浮かべたのはウェディングプランナーという仕事だった。


しかし、収入面や将来性を見つめると迷いが生じたのも事実。家族から受け取った恩恵をさらに返したいという想いもあり、結果として、熊谷は自分が進むべき道を探すためにも、総合人材会社に勤めることにした。担当したのはリクルーティングアドバイザーというポジションだった。キャリアアドバイザーと連携し、求職者が内定を得るためにサポートするのが職務だ。


しかし、人材業界へ入ってみると、熊谷は自らの価値観とぶつかる課題に直面する。自社本位の営業スタイルと自身の価値観のギャップを感じた時だった。求職者や企業の成長のための戦略ではなく、自社の売上を最大化するための戦略。ここに熊谷は違和感を覚えた。


心のもやもやを打ち明けた熊谷に、先輩社員は「お客様の満足と営業成績が全く対極にあると思っているのでは?実際には対極になく、大切なのは順番なんだよ」という言葉を寄せた。そこでまた、熊谷は自らが望む仕事のスタイルを確認できた。


「人力車夫で学んだ、お客様の満足の対価として、自身が満たされる。顧客の幸せと自身の幸せを両立する。そのためには順番を間違ってはいけないという考えを社会人生活の中でどこか忘れてしまっていたんです。人材紹介の仕事でも同様で、まずはお客様のためになることをして、信頼を得ていくことで、自分の成果を上げていくことができるはずだ、と再起できました。」


言葉や想いだけでは状況は変わらない。「まずは3年間、頑張ろう」と決め、MVPを受賞するなど成果も残せたが、入社時に感じた違和感は変わらなかった。約3年半勤めた前職に恩を感じながらも、転職を意識した熊谷が、フォースタートアップスと出会ったのは、そんなときだった。



「テレビ番組の『セブンルール』に、当社のヒューマンキャピタリストの中田莉沙が出演していて、『求人は3つしか提案しない』といった独自のルールを明かしていました。前職での提案スタイルとは大きく異なるものでハッとしたのをよく覚えています。」


番組を観た数週間後にFacebookのタイムラインで、元同僚がフォースタートアップスで働き始め、人材募集をしているという情報を目にした。運命だと思った。熊谷はフォースタートアップスの扉を叩いた。面談や面接の中で、長らく抱えていた違和感を本音で語っていった。そこで、会社との価値観の一致を感じることができた。


「フォースタートアップスのことを調べるうちに、代表の志水雄一郎がYouTubeで述べていた考え方に、共感しました。日本の人材市場が伸びているにも関わらず、日本経済が成長していない状況を言及していた。この視点は、自分の違和感とも重なりました。この会社なら、また人材業界でも挑戦したいと思えたんです。」


転職という人生のターニングポイントを迎える人々のために注ぐ「つなぐ力」

ヒューマンキャピタリストは「志をマッチングし、つなぐ仕事である」と、熊谷は語った。単なるスキルのマッチングだけでなく、求職者の思いを引き出し、共感することで、本質的な価値感や志を見つけ出すことが、自らの役割であるとしている。


「日系の総合コンサルファームからスタートアップに挑戦した方がいます。その方は『息子の結婚式で、〇〇の親父さんてカッコいいな』と言われる自分でありたいという志をお持ちでした。転職活動では、コンサルファームでも関わりがあったヘルスケア領域と、原体験をお持ちだったモビリティ領域の2つの領域で悩まれていました。最終的には、コンサルタントとして提言してきたことを、自身の手で答え合わせをすることなく、ヘルスケアというインタストリーから離れるのではなく、実際に自身でチャレンジしようと決められました。」


熊谷自身の直近の目標には「エンジニアの力になりたい」という強い意志がある。フォースタートアップスが、さらにエンジニアを支援できるような機会の創出、そして会社としてのブランディングへの寄与も、実現したいとも望んでいる。


最近、熊谷はこの仕事を通し出会ってきた方々と、食事会をするようにしているという。日々、さまざまな人と出会う中で、支援の結果によらずに「支援者同士がつながることで悩みを共有したり、新しい挑戦につながったりする環境ができるのではないか」と考えたからだ。


「青臭いのですが、“偶然の出会い”に目頭が熱くなるタイプなんです。人力車夫の時も、たまたま地下鉄のこの出口を選んだから、お客様と私が出会うことができた。たまたま私と気があったからご乗車いただいた。そういう出会いがたくさんありました。海外からのお客様で、今でも連絡を取り合う方もいるんです。自分がいるからこその出会いやご縁がつながる瞬間は、何にも変え難いですね。大切にしていきたいと心から思います。」


浅草の路上で磨いた「つなぐ力」を、熊谷は今、転職という人生のターニングポイントを迎える人々のために注いでいる。これからもその熱意は、多くの人をスタートアップへ呼び込むだろう。

(取材・文/長谷川賢人)

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