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元広告代理店のコピーライターが、夢を追う人生で気づいた、「かなえる」よりも大切なこと。経営管理本部・堤の話。

こんにちは。
株式会社FEZ(フェズ)の堤 藤成(つつみ ふじなり)です。

現在 私は、家族で住むマレーシアと国内をリモートワーク&出張で行き来しながら、経営企画やクリエイティブ・ディレクション等を行っています。(今後も役職や働き方は、流動的に変わっていきそうな予感ですが)今回は私がFEZで働くまでの道のりを自分史的に振り返ってみたいと思います。

少年時代

私は、生まれつき右耳が聞こえません。右耳の鼓膜が塞がったまま生まれた私は、保育園で「餃子耳!」などと、からかわれていました。「自分は欠けた存在なんだ。世の中なんて、面白くない」なんて、勝手に周囲に壁をつくっている子どもでした。

小学生になった私は転校したての教室で、急な出し物をする事態に。特技などもない自分は頭が真っ白になりました。追い込まれた時パッと頭に浮かんだのが、とあるTVCMのフレーズ。当時お茶の間で流れていたもので、意識せずに覚えていたのでした。とっさにCMの真似をして、教室のみんなが、どっと笑ってくれたこと。それが広告を好きになった最初の体験だったと思います。

中学生になり卒業シーズンが近づいてきた頃。卒業文集を書く際の「将来の夢」を書く欄で手が止まりました。「自分は将来何をしたいだろう」普段、うまく想いを伝えられない自分。短い言葉でパッと伝わる言葉をつくる広告の言葉に惹かれていたことを思い出し、「将来の夢」の欄に「CMを作りたい」と書きました。

とはいえ、のどかなお茶畑が広がる田舎で、大工の息子として生まれた自分。広告業界に接点などあるわけもありません。高校時代は悶々としていました。「どうやったら夢をかなえられるんだろう」広告の本を読んだり、公募のネーミングコンテストに応募したり、何かを掴みたいと動き始めました。

大学生になってからは、とにかくガムシャラでした。放送サークルに入ったり、広告をつくるサークルを自分で立ち上げたりしました。テレビ局の報道カメラマン・アシスタントのバイトなどもやりました。とにかく、広告業界やマスコミにつながるドアを見つけたかったのです。

そして就活が近づいてきた頃。コピーライター養成講座に通ったり、広告代理店のインターンシップに参加しました。片っ端から広告業界の人に会いに行き、果ては海外の広告賞に学生単独で乗り込むまでに。とにかく少しでも夢につながりそうな場所に出かけ、今も交流が続く大切な仲間たちと切磋琢磨することができました。結果的に田舎の大工の息子は、あの頃全く現実的に思えなかった第一希望の大手広告代理店に運よく内定することができました。

広告代理店時代

憧れだった広告代理店に入社。なんとかクリエイティブ試験に通り、念願だった関西クリエイティブ局に異動。そこは当時、憧れのCMをつくっていた先輩がたくさんいるまさに夢の舞台でした。しかし新人として大きな壁にぶつかりました。企画が全く通らないのです。

いい企画を出すためには、どうすればいいのだろう。コピー年鑑という分厚い年鑑を数十年分引っ張り出し、写経しながらいろんなことを考える日々。見つけた答えは、小手先の表現テクニックではありませんでした。普通の人が生活の中で何を感じているのか、自分はどんな人生を生きてきたか。泥臭い人間的な心と向き合うことから、本質的に人を動かすコピーは生まれることに気づきました。

良い企画のヒントを得た新人の自分は、まずはアイデアの「質」ではなく「量」で戦うことに。例えば、ひとつの広告賞に数千本のコピーを応募するなど、とにかくかっこ悪くても、ガムシャラに結果に繋げようとしました。そうした努力の甲斐もあって、少しずつ企画が通る確率が上がり、自分がつくった広告を世の中に出すことができました。

ですが少し結果が出てくると、今度は別の悩みが徐々に大きくなってきたのです。確かに名刺には「コピーライター/CMプランナー」として自分の名前がクレジットされています。あの頃思い描いた「広告をつくりたい」という夢自体は、叶ったと言えなくもない。でもなんだかモヤモヤした気持ちがありました。「そもそも広告を通じて、実現したかったことって何だったんだろう?」そう考えて内省する機会が多くなりました。

こうした「夢の先のビジョン」について想いを馳せるようになったのは、結婚し子どもが生まれ、自分の人生観が変わってきたことも大きいかもしれません。

独身の頃は、自分の夢を実現するために夢中で仕事をしてきました。ですが結婚後、妻には妻の別の夢があります。すくすくと成長していく息子にも新しい夢が育っていきます。もちろん周りの同僚や後輩たちを見渡しても、それぞれに目指す夢のカタチがあります。自分のためだけに頑張っても、社会に大きなインパクトは与えられません。

これからは自分の夢だけではなくて、家族や身近な人の夢も含めて応援していきたいと思いました。

そこで当時、妻の希望だった東京転勤にあわせる形で、自分も東京に転勤することに決めました。思いきって行ってみると予想してなかった出会いや成長の機会があり、妻を応援する決断をしてよかったと思いました。


<子どもが生まれたばかりの頃*息子も今や10歳になりました>


もちろん、いつだって自分や家族が思い描いた夢やキャリアの通りになるわけではありません。むしろ会社員は予想外の配置転換を経験する方が多いのではないでしょうか?しかし、目指すキャリアと違うと思っても、新しい場所での経験がのちに大きな武器に繋がることもあります。

入社前はクリエイティブ一本でいくと思い込んでた自分も、プロモーションやデジタルの部署を経験してみると、その面白みや奥深さに気づくことができました。

自分より上手いコピーライターも、自分よりデジタルやプロモーションに詳しい人もたくさんいますが、コピーが書けて、デジタルとプロモーションがわかる人は意外と希少でした。プロジェクトごとにチームメンバーが得意でない隙間を見つけて、その間を埋めるように働いた結果、クリエイティブとデジタル領域をかけあわせた新規事業を立ち上げるなど、やりがいある仕事を経験できました。

「こんなはずでは」という苦い失敗も「この人には敵わない」という絶望的な経験も、結果的に自分らしい個性をつくるきっかけになったかなと思います。

自分の夢でなく、誰かの夢に委ねたり、応援してみること。頑なになりすぎず、今の自分の価値観だけで決めつけないこと。自分の弱さを受け入れて、活躍できる隙間を探すこと。こうして運命に委ねて柔軟に生きることで、今の自分が予想もつかなかった人生に繋がっていくのかもしれません。

アジアMBA時代

思えばマレーシアに住むきっかけも、「海外に住んでみたい」という家族の夢からでした。
私も妻も英語にコンプレックスがあったので、子どもには早くから海外を見せたいと思いチャンスを探る中で、妻がマレーシアでインターン先をみつけました。せっかくのチャンスを活かすべく、妻は息子と二人でマレーシア生活を始めたのですが、慣れない異国での仕事と子育ての両立は想像以上。妻子が疲弊していく中、自分もマレーシアへの転勤希望を出すものの、流石に都合よく希望が叶うことはありませんでした。

どうにか一緒に暮らす方法がないかを考えに考えた結果、休職しマレーシアにMBA留学することを思いつき、勢いで実行。

英語は苦手だったので苦労しましたが、共働きでこれまでちゃんと子育てに向き合ってこれなかった私たちにとっては、毎日子どもを送り迎えして、一緒にテニスして、ゆっくり家族でご飯を食べる生活は、働き方・生き方を見つめ直すきっかけになりました。

もともと家族一緒に暮らすための手段だったMBA留学ですが、実際に学んでみると専門外の領域に関して強制的に興味の範囲が増えるとても良い機会でしたし、日本人がいない環境のなか、国籍の違う仲間たちと机を並べて議論することで、ダイバーシティを肌で感じられました。



ちなみに犬も飼いはじめました


こうして海外で暮らしていると、私たちが囚われている常識やレールも国や文化が違えば全く違うものだと実感します。日本は、同じような肌や考え方をした日本人が多いから、小さな差異が気になってしまうのかもしれません。一方、全然違うカルチャーの人々が集まれば、むしろ小さな共通点を見つけて嬉しくなるものです。

人と違う道を行くことに不安があるといっても、そもそも人はみんな違うのが前提です。「同じ=当たり前」ではなくて「違う=当たり前」だと捉えた方が人生は楽しくなると気づきました。

FEZに入社したきっかけ

そしてMBAの卒業が見えてきた頃。家族で、これからの生き方について話しあいました。

一つは、休職期間を終えてまた元の広告会社で働く道。
もう一つは、転職して海外をベースに新しい働き方に挑戦する道。

すっかり海外に馴染んだ息子の姿をみていると、もう少し家族で海外にいたいと思いました。やりがいを持って取り組んできた広告の仕事だったためギリギリまで悩みましたが、正直新たなチャレンジをしてみたいという気持ちの方が強くなっていました。

その頃に出会ったのが、FEZでした。元Google、リクルート、P&Gなど優秀なメンバーが集まって、とにかく元気に未来を見据えながら働いていること。そして社員、外部委託、学生インターンまでオープンな社風であること。

そしミッションである「消費、そして地域を元気にする」を体現するように、島根支社と東京オフィスを繋いで協力して仕事するなど、柔軟な働き方にも感銘を受けました。こうした働き方をみるうちに、私自身もこれまでやってきた広告の領域だけでなく、経営企画など新たな職務領域や、海外からリモートで働くという働き方へのチャレンジしたいという気持ちが湧いてきました。

こうして私は、FEZにジョインしました。

現在担っている役割は、主に3つ。

1)経営企画部(経営企画・広報・人事等)のマネジメント
2)会社のリブランディングなどのクリエイティブ・ディレクション
3)経営戦略に基づく変革プロジェクトの推進

正直関わる領域は広く、それぞれのタスクは結構ヘビーです。とはいえ、新しい働き方において日々トライ&エラーを繰り返しながら、新たなチャレンジに挑んでいます。現在注力しているのは、全社戦略とリブランディングです。経営層から、ミドルクラス、現場の若手まで、集中的にヒアリングを行い、会社としての目指す方向性を固めています。

私自身リモートでの働き方も含めて試行錯誤の日々ですし、プロジェクトが乗り越えるべきハードルも高く、課題は山積みです。しかし一歩ずつ、焦らずに変革を進めていきたいと思います。




変革プロジェクトの大変さを必死に笑って忘れようとする筆者のイメージ

これからのビジョン

こうして振り返ると、夢を追いかける過程には、大切な思い出が詰まっていると気づきます。

小学生時代、CMがきっかけで、つまらないと思っていた世界がちょっと面白くなったこと。中学時代、卒業文集がきっかけで、自分の夢を真剣に考えることができたこと。大学時代、がむしゃらに動いたことがきっかけで、今も支えあえる大切な仲間たちに出会えたこと。広告代理店時代、色んな部署での仕事がきっかけで、つくる厳しさと楽しさを学べたこと。アジアMBA時代、多様性あふれる環境がきっかけで、常識にしばられない生き方を知ったこと。そしてFEZでは、クリエイティブだけでなく経営企画など、新たなチャレンジに踏み出しています。こうして自分なりのビジョンも見えてきました。

それは、【「かなえる」きっかけをつくる】ということです。

広告であれ、経営企画であれ、新しい働き方であれ、手段にはこだわりません。昔の自分のように「世の中に面白いことなんてない」と思っている人たちを、「かなえたい」未来に向けて勇気づけ応援する、その「きっかけ」になること。変わり続ける中で今後もまた夢は変わるかもしれませんが、今の心境としては、それが「欠けた」存在として生まれた自分の役割なのかなと思っています。

最後に自分史を振り返って気づいた、「かなえる」よりも大切な7つのことをまとめます。

①:見つめる。   :最初はなんとなくでもいい。一歩踏み出せば、一歩先の景色が見えてくる。
②:深める。    :今ある夢さえ何かの手段かもしれない。かなえるの先の目的まで考えよう。
③:委ねる。    :予想外の異動や家族の事情など、運命に流されることで道が開けることも。
④:立ち止まる。 :迷ったら、立ち止まる時間も大事。常識や正解なんて、人の数だけある。
⑤:あきらめる。 :リスクを取らずに何かを得ることはできない。手放さないと、次は掴めない。
⑥:振り返る。  :かなうかどうかの結果よりも、「かなえる」過程こそ最高の宝物。
⑦:変わり続ける。:何かを「かなえたい」と思うところから、また新しい人生が始まる。

以上、長文読んでいただき、ありがとうございました。

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