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「好きな勉強が、たまたまビジネスに」――幼少期から勉強が好きだった創業者が語った多体験の半生

こんにちは。Eirene University(アイリーニ・ユニバーシティ)採用担当です。今回は、当社の創業者でCEOを務める柏野尊徳のインタビューを、2回にわたってお届けします。

柏野は、留学や起業、大学院の非常勤講師を経て、慶應義塾大学SFCの学部生時代に、デザイン思考研究会を発足。研究会を前身として、アイリーニ・ユニバーシティを立ち上げ、CEOに就任しました。

第1回のインタビューでは、そんな経歴を持つ柏野に、子供のころの原体験や学生時代のエピソード、当社を創業した経緯などについて、話を聞きました。

勉強が大好きだった子供時代、「学校を作りたい」という夢に奔走

――幼少期はどのように過ごされていましたか?

岡山県倉敷市で生まれたのですが、父親が経済史の大学教授でしたので、転勤や研究の都合で、デンマークやイギリスに住んでいました。その時に父親は、LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)で、訪問研究員をしていました。「世界に出て研究がしたい」という熱い思いを持った父親でしたね。私はまだ3歳だったので、ほとんど記憶がないのですが……。

元々、海外の色々な場所に行っていたので、新しいことに抵抗がないタイプでした。特に、新しい何かを見つけることが大好きで。帰国してからは、日本の幼稚園に通っていたのですが、泥だんごづくりで、「砂場の砂を何割、日陰の土を何割混ぜると固くなる」といった研究をしていました。上手くできたら、その配合を周りの人にも教えるのも好きでしたので、今の仕事と原型は同じですね。

――小中学生や高校生の頃は、どのような子供だったのですか?

内向的で家に引きこもっている方が好きなので、よく本を読んでいました。小学2年生のときは、「1年間で最も図書館の本を読んだ生徒」として表彰されたりもしました。エジソンやリンカーン、二宮尊徳などの伝記本を好んで読んでいたので、「自分も将来は、社会に役立つことをしたい」と漠然と思っていました。中学受験はしないのに、自ら、両親にお願いして塾にも通っていましたし、振り返ってみると、本当に勉強が好きな小学生でしたね。

現在のオフィス内の一部です。

また、中学1年生のころ、経済的に成功した人が恵まれない国に学校を作るというテレビ番組の特集を観て、「将来は、学校を作りたい」と考えるようになりました。自分自身、学ぶことが大好きだったので、学ぶ気持ちがあるのに学べないという環境は良くないと思ったんです。感覚としては「美味しい料理ができた。せっかくだから周りの人にも食べて欲しい」というのと同じです。社会の学習環境を広げることが、今も仕事の原動力です。

――その後は、どうされたのですか?

当時は音楽にハマっていたので、「音楽で一発当たれば、印税で世界中に毎年学校を建てることができる!」と思ったんです。それが、私の人生で一番最初のビジネス構想です。その後、中学校と高校ではずっと音楽を続けて、「いかに売れる曲を作るか」ということに夢中になりました。友人と一緒にバンドで曲を作って、CDをプレスして、ライブハウスで演奏したり。その傍らで、ミュージシャンとして成功した場合の著作権管理についても勉強していました。

そして、高校を卒業後は、1年間イギリスに留学しました。それも、「売れる曲を作るなら、ビートルズレベルの曲を作らなければ」と思ったから。しかしあるとき、「会社経営の方がお金を稼げるのではないか」と考えたんです。起業に関する本などを読みあさっているうちに、今度は、「投資家の方がもっと稼げるかもしれない」と思い、証券会社のバーチャル口座で投資の練習をしたりしていました。

留学後に2度の起業、そして大学院の非常勤講師も務める

――留学を終えて、帰国後に起業されたそうですね

はい。帰国して、20歳のときに、地元の岡山で農業系の会社を立ち上げました。世界経済について自分なりに学んだ結果、「持続的なビジネスをしないと社会が破綻する」と思い、「もう少し環境にやさしい形でお金を儲けることができないか?」と考えたんです。友人の父親が農業用地を貸してくれましたし、種も安く手に入りましたし、元手はそこまでかかっていないのですが、当時の私はビジネス経験が0。2年ほど続けてみましたが、なかなか事業が伸びませんでした。

その後は、知り合いの会社でインターネット事業に携わりましたが、半年ほどで辞めて、当時、学習中だったコーチングで資格を取ることにしました。そして資格取得後に、2回目の起業をしました。オンラインでWebページを作って、クライアントを集めて。

あるとき、1時間ほどの講演依頼があったのですが、講師として呼ばれるのは初めてだったので、講演テーマに関する本を20数冊ほど読んだりしながら、当時の自分にできる最大限の準備をして臨みました。「講演で知識を出し惜しみして、その後の契約につなげる方法」を不誠実に感じていたので、知ってることをその場で全部出し切るスタイルでしたね。講演経験を通じて、顧客の課題に答えることの面白さや、自分の成長が価値の提供につながる感覚を学べました。ただ、当時はキャッシュフロー感覚が育ってなかったので、自己投資にお金を使いすぎて一度自己破産してます(笑)。2回目の起業経験から「貢献と成長」「売上と支出」のバランスが大事だと学習できました。

――岡山大学で非常勤講師を務めていたこともお聞きしました

岡山大学の大学院で講師をしている仕事仲間の授業を手伝ったことがあったのですが、学生からの評価が良かったそうなんです。そこで、非常勤講師をやることになったのですが、「高卒の人間が大学院生を教えるなんて面白いな」なんて思いながら、引き受けました。

また、非常勤講師の仕事が決まる少し前から「大学で勉強がしたい」と思い、慶應義塾大学と産業能率短期大学の通信教育課程を仕事をしながら同時に受講していました。スクーリングといって、実際に教室で講義を受ける機会が何回かあり、それが本当に面白くて。特に慶應の哲学の講義を受講して、「通信ではなく、通って本格的に勉強したい」と思って、受験勉強を始めることにしました。通ってみたい大学はいくつかあったのですが、福沢諭吉の「学問のすすめ」が好きだったこともあり、慶應だけ受験することにしました。文学部とSFC(総合政策学部)です。

ただ、高校生のときは音楽ばかりで受験勉強をしてなかったので、日が昇る前に起きて参考書を開き、夜になって疲れてきたら寝る、という生活を3ヶ月ほどしました。幸いSFCの受験科目は、仕事でもよく書いていた小論文と馴染みのある英語でしたので、無事に合格。そのようなわけで、2010年から学部生として入学しながら、大学院の非常勤講師も務めるという二足の草鞋状態で過ごしていました。

――哲学に興味を魅かれたのはなぜですか?

哲学に興味を魅かれたのは、本田宗一郎や井深大のエピソードを本で読んでいる時に、「思想がしっかりしている経営者は後世に良い影響を与える」と仮説を持ったからです。私の中では常に、研究者のような普遍的な価値を追求する発想と実用的な活動で成果を出したいという両方の気持ちがあるんです。例えば、ビジネスで成果を出すことは大事だけれど、100年後も1,000年後も残るような深い思想を土台にビジネスをしたいと思っていました。哲学には人類の知的営みが凝縮されていると考えているので、長い時間軸で成果を出すには必須だと思っています。

SFCでデザイン思考研究会を発足、ビジネスとして拡大する

――学生のときのエピソードを教えてください

SFCでは、ビジネスをやろうという雰囲気があって。私も、3~4つのプロジェクトに関わっていたのですが、そのなかのひとつが、アイリーニ・ユニバーシティの前身となるデザイン思考研究会でした。2012年に、友人2人と一緒に、「自分たちが学びたいことを、自分たちでやってみよう」と立ち上げた勉強会です。デザイン思考を研究テーマに、国内外の本を輪読したり、定期的に集まってディスカッションをしていました。

そして、研究のアウトプットとして、学生向けにワークショップを開催していました。大学院で非常勤講師を2年ほど経験していたので、講義づくりはスムーズでした。そのほかに、スタンフォード大学が発行するデザイン思考の教材を翻訳して、Webページに掲載したりもしていました。大学で学んだ社会心理学やマーケティング論の知見を応用して、シェアしやすくなる紹介文を作り、結果的に初日で1万件、3日で2万件ほどダウンロードされました。それまで「渋沢栄一の銀行制度や福沢諭吉の簿記のように、海外の有益な知見を機会があれば日本に紹介したい」と漠然と思っていたので、デザイン思考という考え方の普及に貢献できて嬉しかったですね。

ただ、シェアをしやすいことを最優先にしていたので、教材のダウンロードは無料、収益は0です。ダウンロードページのなかに、Facebookのページリンクを作り、「教材を読んで面白いと思ったらワークショップにも来てください」というスタンスで。今でもそうなんですが、一方的に売り込むのが得意じゃないんです。価値があるものをきちんと作って必要とする人に紹介すれば、おのずと反応率は上がると思っているので、今でもこのスタンスは変わっていませんね。

――サークル活動から、どのようにビジネスとして拡大していったのでしょうか?

好きな勉強が、たまたまビジネスになっていったという感覚です。大学で学んだ理論やフレームワークでマネタイズしたら、上手くいったという。そのうち、企業からの依頼も入ってきて、年間売上が1,000万円を超えそうだったので、発足から1年後の2013年に法人化しました。同時期に、SFCの修士課程に進んだため、論文執筆に必要なデータや調査経費を事業側で確保しながら、研究とビジネスの両輪をまわすエコシステムとして会社を運営していきました。

そして2015年からは、初めてのフルタイムメンバーが入りました。徐々にコンテンツを拡張させていったり、翻訳教材ではなく、オリジナル教材を作ったり、スタンフォード大学の講師を日本に呼んで、共同でワークショップを開催したり。ただ、2019年くらいまでは社会的価値を追求する成果主義の集団というより、自由な雰囲気でワイワイできるサークル的な雰囲気が残っていたというか。

僕自身の経営者としての力不足から「あなたのことを信頼できない」とか「さっきの発言はパワハラだ」と当時のメンバーから注意を受けました。一番の大きな学びは、将来展望に一緒にコミットできて、そのために際限なく自己成長できるメンバーじゃないと、研究・教育を土台とするこの組織は上手くいかないと実感できたことです。

そこで、ビジョンやミッション、バリューを明文化して、その通りに組織を動かし始めました。例えば、組織のバリューに反する行動を取った人に「あなたのその行動は、うちの組織では全く評価されない」「今すぐ改めてほしい」と明確に伝えました。すると、組織の方向性に合わない人がどんどん辞めていきました。「大学づくりには興味がない」「そんな会社だとは思ってなかった」など。簡単に言えば、それまで学習の延長で僕がビジネスをしていたので、組織体として必要な規律が弱かったんですね。

「ちょっと厳しすぎるかな」と思ったりもしましたが、今度は「それぐらいバリューが明確な会社の方が働きやすい」という人が集まるようになりました。今は、最初から会社の方向性やバリューに納得して入った人たちと運営できています。まだまだ課題ばかりですが、個人が自由に研究・学習するスタンスと、規律のある組織としてビジネスをする両方のバランスが、前よりは取れてきたかなと思ってます。昨年12月には「世界レベルで高度な研究・学習環境を提供する」というビジョンに共感するマネージャーが入ってきてくれて、今年からようやく、組織体として本格的にアクセルを踏めると感じています。

――ここまでのお話を聞いて、社会の常識という枠にとらわれないという印象を受けました

高校を卒業したときも「今の自分には、大学へ行く理由がない」と思って仕事をはじめましたし、社会の多数派を見て自分の行動を決める発想はそもそもないんですよね。そのときそのときで、自分が本当に良いと思った選択肢を選んでいるだけで。結果として社会の常識に沿っていたり、そうでなかったり。もちろん、振り返ればもっと良い行動は常にあったと思いますが、行動しないと未来は見えてこないので「やってみてダメなら、その結果からまた考えよう」という実験思考です。確かに、こうやって振り返ってみると、何をしてきた人なのか分からないでしょうね(笑)

後半は、仕事へのスタンスや今後の展望についてお届けします。次回もお楽しみに!

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