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「すべては、私たちの明日の笑顔のために」

背年期に苦悩の日々を送る

多感な青年時代を送っていた。両親や教師など、周囲の大人が一方的に決めつけてくることに対しては徹底的に反発し、自分が好きな世界に没頭したり、正しいと思うことを追求したりした。
大学に進学したものの、単位を取得することが目的化している学生生活のあり方に納得できず中退した。
この頃から父親との確執がいっそう激しくなり、ほとんど絶縁状態になったという。

仕事もせず、かといって何かやりたいことがあるわけでもない。何もしないで自宅に閉じこもっていたが、見かねた母親のすすめもあって、日本各地を旅することにする。当時読みふけっていた司馬遼太郎の歴史小説。その舞台を訪ね歩く日々を送った。

その後、海外留学を目指して英語を勉強したり、公認会計士の資格試験に挑戦しようとしたりしたが、いずれも道半ばで挫折。
日に日に焦りは増すが、時間だけは容赦なく過ぎてゆく。いよいよ二十代は終わろうとしていた。そんな時、東日本大震災が発生したのだった。

「テレビ報道で連日流れてくる津波や原発事故の映像に、心は知らずしらずダメージを受けていた。夜は眠れなくなり、食欲もなくなって、体重が激減してしまった。

あまりの急激な体調の変化に驚き、病院を受診する。実は首にできたしこりが気になっていたのだ。数年前に親友をがんで亡くしている。彼の症状とそっくりだった。

果たして、血液検査をすると、腫瘍マーカーが異常値を示していた。
医者からは
「気になる数値が出ているので、念のために大きな病院で再検査をしましょう」と言われたが、

「自分はがんなのだ」

という思いにとらわれて、詳しい説明は何も耳に入ってこない。突然、世界が真っ暗になってしまった。

再検査までの期間、そして結果が出るまでの期間、魂が抜けたような状態だったという。
病院を受診していることは、誰にも打ち明けていなかった。
それでも、あまりにも元気を失っている姿を見て、母親が声をかけた。
「夫婦で出雲大社に行くが、一緒に来ないか」という誘いだった。

長らく口をきいていない父も一緒ですから、何もなければ行くことはなかった。しかし、この時を逃せば二度と和解のチャンスは訪れないという思いもあったのかもしれません。

私は『行く』と答えた。

こうして、名古屋から出雲まで、父親の運転する車の後部座席に身をうずめた。
後ろから両親の背中を見つめていると、子供の3頃の思い出がよみがえってくる。旅行やキャンプの一コマ、誕生日やクリスマス、何気ない毎日の食卓の風景......当たり前だと思っていた日常が、実は当たり前ではなかったことに気がついた。
すると、今こうして車に乗っている時間が、限りなくいとおしく思えてくる。
込み上げてくる思いを抑えることができず、後部座席で声を押し殺しながら感謝の涙を流し続けたのだった。

自分に宛てた遺書出雲旅行から戻って、まずしたことは、遺書を書くことだった。

「遠からず自分はがんで死ぬ」

と信じ込んでいたので、何か書き残さずにはいられなかったのだ。

遺書は三通書いた。一通は両親に、一通は当時おつきあいをしていた女性に、そしてもう一通は自分自身に宛てたものだった。三通目は、仮に今回、死なずに生き延びることができた時の自分に対するメッセージだ。

この三通目の遺書こそ、「立志」というべきものであり、のちに桶庄の新しい企業理念の核となるものであった。その趣旨は

『人生とは、いただいた心や魂を磨くためにある。

もし今回、死なずに生きることを許されたなら、あの世で神様や仏様、両親・ご先祖様と再会した時に、胸を張って笑顔で今回の人生を報告できるような、そんな生き方をしよう。

お預かりした魂を、今回の人生でこのように磨いてまいりましたと、正々堂々と報告できるような生き方をしよう』


というものだった。

遺書を書くという体験を通して、自分の心の一番深い部分に触れられたような気がした。朝、目が覚めると、それだけで感謝の気持ちが湧き上がってきた。部屋に差し込む朝日が神々しく見えた。
外に出ると、空も雲も木々も、目に入るものすべてが美しく輝いて見えた。すべての存在がかけがえのない尊いものである――この体験が、その後の人生の原点となった。

数日後、再検査の結果が出た。
がんではなかった。
三通目の遺書の中身を実践する日々が、こうして始まったのである。

一連の出来事を通して、父親とも会話ができるようになっていた。折しも、桶庄では新たに不動産事業を立ち上げることになり、そのスタートと同時に桶庄に入社することを決意した。長い曲折の末の入社だった。

「ゴールドスタンダード」の結実

社員の内発的動機をどう発露させるのかを模索していた時、企業理念を改訂する機会が訪れた。改訂を任されたのは、おそらく、五代目の社長就任を見据えてのことだろう。

以前であれば、「企業理念は社長一人で決めるもの」と思っていたかもしれない。

しかし、「それでは社長の理念にはなるが、みんなの理念にはならない」と考え、幹部を中心に社員の声を聞き、それらを言葉や表現に盛り込んだ。

こうして完成したのが、桶庄のコーポレートスローガン

「すべては、私たちの明日の笑顔のために!」

「4つの約束」

(お客様に対する約束、従業員同士の約束、会社に対する約束、地域社会との約束)である。この新しい企業理念を、桶庄では「ゴールドスタンダード」と呼んでいる。私の志と思いが、ここに凝縮されたのだった。

同時に、毎年作成し、社員で共有している「経営計画書」も改訂した。
従来の経営計画書は、様々な状況や場面でどう行動すべきかが細かく具体的に示されている、いわばマニュアルのようなものだった。

誰がやっても同じ成果が出るようにという、その意図はわかるが、その人のオリジナリティとか、工夫の入る余地がないのは違う気がした。その人自身がどうすべきか考える。そのひと手間が大切です。それによって血の通った行動になると思った。

そこで、経営計画書からマニュアル的な要素を排除して、あえて抽象的な表現にとどめた。
指示や命令は、与えれば与えるほど、その人自身が持っている潜在能力や可能性を奪っていくことになると思います。ですから、例えば何か相談されたとしても、私から明確な答えは言わないように心がけています。答えを言うのではなく『投げかける』、あるいは『引き出す』。究極は

『解き放つ』

というレベルまで行きたいと考えている。


↑『フレッシャーズキャンプ』の様子:入社前から新入社員の主体性を引き出す研修

トップに指示を仰いですぐに答えが返ってくれば、部下は言われた通りにやるだけで、難しいことを考える必要はない。
しかし、「どうしたらいい?」と言われると、部下は何が正解かわからない中で自分なりに答えを導き出し、行動を選択しなければならない。
また、それによって起こる出来事に、自分で対処しなければならないから、仕事のハードルは高くなる。だからこそ、そこに工夫の余地が生まれ、オリジナリティを発揮できる場面が訪れる。

目の前の課題を自分の力でクリアできたら、自信にもつながるし、仕事のやりがいも感じられるようになる。ねらいはそこにある。

ただし、長く外発的動機にもとづいて行動していた人が、トップのスタンスが変わったからといって、すぐに内発的動機にシフトできるとは限らない。

理念の浸透、社風の改革には時間がかかる。それを承知の上で、少しずつ理解者・共感者が増えていく状況を楽しんでいるそうだ。

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