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スマホを持たない私にとってのVR

 私は10月から、VR技術を使ったサービスを手掛ける企業で働いている。今回は一人でも多くの人がVRの世界に興味を持っていただきたいという思いから、VRについて私が考えていることを書く。

VRスタートアップを選んだ理由

 私は昨年の夏ごろにスマホを解約して、ガラケーを使い始めた。週末の休みの日は、勉強や運動などやりたいと思っていることがたくさんあるにもかかわらず、気づいたらスマホを触っていて、YoutubeやSNSを行ったり来たりしているうちにあっという間に時間が過ぎてしまい、結局何もできないまま日曜日の夜になっていることが何度もあった。それが嫌になってスマホを持つことをやめることにした。スマホを使わないようになってからしばらくは、大事な連絡を見逃しているかもしれないと不安になったり不便さを感じたりすることはあったけど、今ではもうすっかり慣れ、やりたいことに時間を使えるようになってきたと感じている。
 自覚の有無にかかわらず、私と同じように、自らが必要と思う以上にスマホやパソコンなどのデジタルデバイスを使ってしまい時間を浪費し、悩んでいる人は多いと思う。また、世の中には経済的目的を重視するあまり、ユーザーから出来る限り多くのお金と時間を搾取しようとするサービスが増えてきており、私はそういったことを問題視するようになってきた。
 現在の会社に勤める前の私は、今の会社はどちらかと言えば上記のような、ユーザーを悩ませるサービスを制作することばかり考えているのだろうと思っていたし、もしそうであれば彼らの考えを変えてやらなければならないと、生意気ながらも考えていた。昔、何かの本で「自分の意見を深めるための近道は、反対意見の最高な議論に触れることだ」とあったことを思い出し、ここで働くことは自分の考えを深めるいいきっかけになるだろうと思ったことが、入社を決めたひとつの理由である。
 実際に会社に入ってみると当初の予想は良い意味で裏切られ、彼らの日々の様子から、VR技術でたのしめる世界をつくるために本気になって取り組んでいることが伝わってきた。私は今の会社、またVR技術自体のすごさにも魅了され、いつのまにか、もっとこのVRの世界について知りたい、そしてたのしめる世界をつくりたいと考えるようになっていた。

私にとってのVRデバイス

 先日、会社の何人かでNetflixの団体アカウントを作ろうという話になり、一緒に会員登録しないかと誘われた。私は過去に英語の勉強のために洋画を観ようとしてNetflixの会員になったことがあったのだが、誘惑にめっぽう弱い私は、いくつか洋画コンテンツを視聴したあと、ちょっと息抜きのためにと、英語の勉強には一切役に立たないアニメやドラマを見始めてしまって、しばらく観続けているうちに気付いたら週末が終わるという経験をしていた。結局同じことを繰り返すだけだろうから会員登録は断ろうと思っていたのだが、「Netflix VR」というVRアプリがあるという話を聞き、さらに会社に余っているOculus GoというVR用ゴーグルを貸してくれるとのことだったので、面白そうだし少しくらいいいかと思い試してみることにした。これまでの経験から自分の意志の弱さを確信していた私は、休みの間中ずっとこのゴーグルを使い続けて後悔ことになるだろうと思っていた。Netflix VRは、VRゴーグルを通して、あたかも豪邸の一室の大型テレビで映画やドラマを視聴しているような体験ができるというもの。ベッドに寝ころびながらドラマが観られるので、大変快適だった。すっかり虜になって、3話目を観始めたくらいのタイミングで、期待と興奮で高揚していく私の気持ちとは裏腹に、Oculus Goの電池が切れて、視界が真っ暗になってしまった。急に現実の世界に戻されて、さっきまでの興奮はどこに行ってしまったのかと、虚しくなりがっかりしてしまった。
 しかし、しばらく経って冷静に考えてみると、この電池寿命の短さは、私にとって都合がよいのではと思えるようになった。Oculus Goは電池が2時間ほどで切れてしまうので長時間視聴を続けることはできないのだが、一方でその視聴時間の制約が、私の貧弱な意志をつなぎとめている。私の意志が弱くなり始めるタイミングでOculus Goは電池が切れるので、エンタメの沼に足を踏み入れる直前で私の目を覚ましてくれるのだ。Oculus Goのおかげで私は沼にはまることなくテクノロジーの恩恵を授かることができており、大変満足している。

アナログゲームとデジタルゲームとVR

 先日兄と話していたとき、「お前は言葉を話し始めるより先にテレビゲームで遊んでいた。」と言われた。私は本当にゲームが好きで、幼いころは特にゲームの迫力に魅せられて、ゲーム中の世界観にどっぷりつかっていた。保育園時代は星のカービィをプレイしすぎたためにみんなからカービィというあだ名をつけられるほどだった。(小学校に上がるときもあだ名は変わらず、結局私は高校を卒業するまであだ名はカービィだった。ちなみに父は今でも私をカービィと呼ぶ。)当時の私は時間が許す限り一日中ゲームをしていた。
 しかし、大学入学後は昔ほどゲームに熱中することがなくなった。ゲームは楽しいのだが、飽きてしまった途端に何だか虚しくなるのだ。当時、大抵のゲームは、それをプレイした累計時間が表示されており、そのゲームに費やした時間を確認することができた。累計プレイ時間が200時間を超えるほどプレイしたタイトルもいくつかあり、プレイ時間を見るたびに、ゲームに費やした時間をもっと有意義なものに使うべきだったのではという罪悪感が強くなっていった。
 一方でこの頃からアナログゲームにはまり始めた。ここでいうアナログゲームはいわゆるカードゲームやボードゲームなど、トランプや将棋のように実際にカードや駒を使うゲームを指し、テレビゲームやスマホゲームなどのデジタルゲームとの対比のためにアナログゲームと呼んでいる。アナログゲームには、デジタルゲームをプレイしたあとのような虚しさがなく、いつもとても楽しくプレイできた。
 なぜデジタルゲームをプレイした後は虚しく感じるのに、アナログゲームをプレイした後は虚しくないのだろうかと考えてみた。私が考える理由は以下の3つである。
 1.プレーヤー全員が同じ時間に同じ場所にいて、互いの顔が見えること
  アナログゲームはデジタルゲームと違って、皆で集まってテーブルを囲んでプレイする。デジタルゲームでは互いの顔をみることはできないが、アナログゲームでは互いの顔や表情や身振り手振りが見えるので、みんなで一緒に遊んでいる感覚があり、それが楽しい。
 2.プレーヤー同士の間に信頼関係があることを前提とすること
  デジタルゲームでは、ルールに反する行いはそもそもできないようになっている。将棋を例にとると、デジタルゲーム版では、相手の駒をこっそり奪ってしまったり、気に入らないコマをこっそり動かしたりすることはゲームの仕組上できないが、アナログの場合は相手の目を盗めばできてしまう。しかし、ルール違反をしてもそもそも楽しくないし、大抵の場合は誰もがルール違反をできるだけしないようにつとめる。仮に誰かが間違えてしまったとしても、些末なことであればそのまま進行としたり、不平等にならないように埋め合わせをすることが多い。ここには、参加者全員がお互いを尊重し、皆でゲームを楽しもうという、共通の目的がある。アナログゲームは「ルール違反ができる構造になっているが、誰もしない」ことによって、「ルール違反がそもそもできない」デジタルゲームよりも、プレーヤー同士の信頼を確認することができるようになっている。
 3.準備や片づけの時間がありプレイするのに手間がかかること
  アナログゲームでは、始める前にはゲームに必要な盤をセットしたり、カードを配ったり、コマを並べたりして、終わった後はそれらを片付ける時間がある。これが少々面倒なために、デジタルゲームに比べると、やり過ぎることが少なくなる。
 また、始める前には、緊張したりワクワクしたりするし、終わった後は達成感があって、○○が面白かったねとか、××の嘘はバレバレだったとか、そういう時間も含めて楽しい。友達と一緒に行く旅行の車中で、目的地到着までのワクワクした気持ちや、帰り道で思い出話をする楽しさに近いものがあると思う。
 上の3つの理由から、アナログゲームにはデジタルゲームのような虚しさを感じないで楽しめるのだろうと考える。
 VRにもゲームコンテンツがたくさんあり、いくつかのタイトルをプレイしてみた。FPS、協力型RPG、どうぶつの森(みたいなゲーム)、音ゲーなどをプレイしたが、どれも没入感がすごくて、実際にそのゲームの世界で動いているような感覚がある。またVRは身体的表現が得意で、自分が手を振ると、ゲーム内の自分も実際に手を振るし、他プレーヤーとコミュニケーションする際は、本当に目の前で顔を合わせて話しているような感覚が得られる。
 以前読んだ、東 浩紀さんの『弱いつながり』の中に次のような文章があった。

---情報への欲望は、身体と深く関係しています。情報は公開されるだけでなく、欲望されなければならない。ではどうやって欲望させるか。そのためには身体を「拘束」するのがいちばんいいと思います。たとえばぼくたちはチェルノブイリに行きました。行くのは大変です。日本からウクライナまでの直行便はありません。ようやくキエフについても、チェルノブイリはそこからバスで二時間かかる。でも移動時間は決して無駄ではありません。なぜなら、その工程のなかでこそ、ひとはいろいろ考えるからです。この「移動時間」にこそ旅の本質があります。もし今回のチェルノブイリツアーについて、仮想現実で体験可能だったとしたらどうだったでしょう。自宅にいながらにして、チェルノブイリをめぐることができる。いま労働者はこういう生活をしているのか。自己の傷痕はこう残っているのかとわかる。実際、いまでもチェルノブイリ原発の写真はネットにいくらでも転がっています。博物館の内部写真もあります。グーグルストリートビューもあります。現地に行っても写真と同じ風景が見えるだけです。仮想現実でも情報は十分に手に入るように思えます。しかしやはりなにかが違います。違うのは情報ではなく時間です。仮想現実での取材の場合、そこで「よし終わった」とブラウザを閉じれば、すぐに日常に戻ることができる。そうなるとそこで思考が止まってしまう。けれど、現実ではそんなに簡単にはキエフから日本に戻れない。だから移動時間のあいだにいろいろと考えます。そしてその空いた時間にこそ、チェルノブイリの情報が心に染み、新しい言葉で検索しようという欲望が芽生えてきます。仮想現実で情報を収集し、すぐに日常に戻るのでは、新しい欲望が生まれる時間がありません。---

ネットやVR(仮想現実)技術が発達した現在、旅の本質は移動時間にある。もしもVR技術で、現実世界と同等の、もしくはそれを超える'アナログ感'を表現することができた場合、仮想現実に足りないものはこの「移動時間(≒コア体験までの距離)」にあるのではないかと考える。それを表現できるようになったとき、VR世界は現実世界を'超える'のかもしれない。私はそこにVRへの期待と可能性を感じている。その実現に向け、これからもこのVRの世界についてもっと知って、発展させ、たのしめる世界を実現していきたい。

最後に

これを読んでくれた方が、少しでもVR世界に興味を持っていただければ嬉しいです。先日発売されたOculus Quest2は価格も手頃ですので是非!オンラインでプレイできるので、もし一緒にプレイする人を探されている場合は是非ご連絡ください!


Kimura Kazuki

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